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2010年11月3日水曜日

ニーチェ

ニーチェ

アフォリズム:前兆的  芸術家による様々な「視覚」が生まれる・・・之すなわち立法者となる。ゆえにプラトンは「詩」を恐れた。
思想のネガティブ性・・・哲学をするに避けられない。思想は生を裁くこと、すなわちより高い価値を生に付すために、「生」を試練にかける。つまり、生の根幹にまで行き着く。これにより、生は最も弱い形態にまで還元される。そして最終的に、否定性(生の無価値)が肯定性(生の有価値)を圧倒することになる。
哲学の退化・・・ソクラテスが「ひとつの尺度」として物事を区別しようとしたことから哲学の退化が始まった。ようするに、「優劣」「真偽」「善悪」を区別した。カントがこれに疑を呈し、認識することの理想そのものに疑問を投げかけた。

宗教に属するものは「神」という名の重荷を背負っている。
ニーチェ:諸価値の転倒には「神の死(否定的見解を考えること)」と「あるがままの実在を自認すること」が必要

歴史において我々が立ち会うのは「イエス」が「ノー」に屈するということ。より多元的な方向へと我々は逃げ込む傾向にある。
ニヒリズムが勝るとき、そのとき初めて「力」への意思は「作り出す」という意味をやめ「力」を欲すること、支配しようと欲望することを意味する。(既成の価値、貨幣、権力を我が物として要求することを意味する)「力」への意思は奴隷のそれであり、無力なものが「力」について考える様態である。ニヒリズムに屈すると人間は欲を出し始める。

怨恨・・・お前のせいだ、お前さえいなかったら等の投射的な非難。
疚しい心・・・私が悪い、私のせいだ等内向投射のモメント
禁欲主義的理想・・・高位の価値を背負い、それで責任を果たしたと感じる反動的な生しか許容しない。
神の死・・・自分自身が神となり、死の論理的帰結を欲する
人間は常に既成の価値の下に統治されている。旧来の価値を新しい価値に置き換え(重ね合わせる)ようとすることをやめなければ「真の人間」たりえない。価値を失った世界へと転落していくとき、「真の人間」が生まれる。虚無を意思するのではなく、意思を虚無とすること。

否定がそれ自身として一つの能動となり、上位の肯定へと至るために、滅びようと望む人間にまで至らねば(それを超えなえれば)ならなかった。
否定的なものはより高次の肯定に使えるように転換する
永遠回帰とは・・・死んでも次の生があるということ。しかし、この生は「人生の楽しみ」を謡うものではなく、「人生の肯定」を対象としている。
永遠回帰は選択的・・・中途半端な意思はすべてふるい落とされ、肯定的な意思のみが繰り返される。

超人(否定を乗り越えたもの)は他人から授けられることはない。自己からのみ生み出される。

カントやヘーゲルの「確認・定式化」ではなく、創造・実行が大切である。
ギリシア悲劇:ディオニュソス的なコーラスのことであり、そのコーラスが自分の内から外へと向かってアポロン的な諸処の世界を投射することによって緊張の高まった事故を発散していく過程で理解される。

キリスト教的人間・・・生きることに苦悩し、心貧しく、不運な人間。(ショーペンハウアー的な悲壮感)

人間が意志するということ・・・意思に対し実現の可能性を事故の中で肯定的にとらえているということ。精神の肉体支配と肉体の精神への服従。ここから、哲学が生まれる。

勇気が危険に身をさらしながらあえて前進することが可能な限りにおいて真実へと近づいていく。
苦に対し、意思を転換(苦からの逃避)させる(死を逃れたい・変化を逃れたい・欲望から逃れたいetc)・・・この転換により何らかの意味を持つ「意味性」へと我々を導いてくれる。これが虚無の意思である。これを超えたところに「超人」がいる。

憐み・同情・・・生のエネルギーを下降させる作用をもつ。人の心を消沈させる。中途半端な「残り物」を多く生み出す。ショーペンハウアー的。

「生存に満足することなく、生み出せ!」
おy                                                               
自らを肯定的にいきよ。来世でも同じことがなされるのだから。肯定を伴わない生など苦でしかない。選択せよ、己が欲する所の所与を。従属もよい、それを己が欲するなら。孤独もよい、それを己が欲するならば。

快楽とは苦痛と一体のもの。(プラトンの「パイドン」のなかのソクラテスの言葉)

真に存在することではなく、純粋に生成することの肯定。統一性を保つことではなく、多数多様化することの肯定。常に「動き」ある力こそ(留まらない力)価値がある。

救済の期待は「生の力」の嫌悪に当たる。自らが切り開かなければならない。

フォイエル・バッハ・・・神とは人間の本質が投射的に対象化されたもの。人間の属性が神へと投影され理想化されたものである。神の所有化。一見神殺しと捉えられかねないが、自己の中に神を保全することになるだけ。外的権威によって受動的に禁じられていたもの(外的に与えられてきたもの)を自己から進んで荷を背負うようになっただけである。

プラトンに端を発する哲学は「服従」を根幹においている。根本的に「同一性」を前提にした差異、二次的に派生した差異しか取り入れることができない。差異でありながら「差異」から離れることができないでいる。

デリダ

デリダ

哲学とはエクリチューるによって成り立つ。したがって、それを綴る言語、メタファー、文の彩に決定的に依存する。文学と同じであろう。

ゾンビの決定不可能性:生きているが死んでいる。生と死の中間。決定不可能なものの恐怖。ここが脱構築への足がかり。秩序あるものに恐怖の毒を吐きながらも、秩序へと回帰していかなければならない。しかし、回帰しない終わり方もある。中間者としてとらえること。

書くことと話すこと:エジプトのトートという発明神→文字の発明。全体の王→タムス
トート「民の記憶と知恵に働くパルマコン(魔法の一服)を発見した」このパルマコンは良薬にも毒薬にもなるモルヒネのようなもの。 タムス「文字を書く者は記憶の鍛錬を怠る。記憶を外的なしるしに依存することになる。これは仮象の知恵である。」文字には不適切な使用の際に、文字を助ける父が必要である。文字自体が「対象」と語ることができないから。ちなみに、言語を録画したものも「文字言語」の内に含まれる。 
しかし、これをそのまま受け取るのはよろしくない。 なぜなら、我々は記憶を心の中に「刻む」こと、「取り出す」ことからも文字言語との善悪がつかなくなってしまうはずであるから。

パルコマス(身代わりの山羊):町の内部に見出される悪であり、町の清らかさを保つために外へ追放しなければならない。内部に存在していながら外部へと追いやられる。双方に属する必要があろう。決定不可能性がここに生まれる。
プラトンが文字を使って「文字言語の悪」を語るが、文字を用い、それに依存している点。

文字言語は無益であるというのが、古き哲学者たちの考え。しかし、文字言語が何をもたらしたか?諸所の芸術、政治システム、資本主義を生み出してきた。発明という観点から見ると文字は大きな役目を果たしたといえる。その役目が良いにしろ悪いにしろ…

現前:次の主張の根拠となる。
真理とは仮象の背後に存在しうる。 神の言葉と真理の間には直接的結びつきが存在する。 時代精神は特定の時代について教え、教えるがゆえにその時代の内部に現前しうる。 写真は重要な瞬間、今を捉えることができる。 芸術家が表現する感情は作品に現前する。

音声言語による完全な現前、文字言語による不完全な現前。
文字言語は書き手の生存そのものを超えて効力を及ぼす。現前の断絶、死の可能性を含む。
死せる意味作用が文字言語の特色。

音声言語と文字言語→現象学と構造主義
フッサールの戦略:●基本的なものだけを残し、他を一切締め出す。●言語の外的部分を締め出す。●意味を内部として取り扱う。 ただ己自身と向き合う意識の問題に限るのが現象学。
表示的記号:意味作用は行うが動的な意図を欠く記号。  表現的記号:意図的な力を備える記号。 落葉が「秋である」ことを意味する。このとき、木の葉には「秋」というような意図はなく、表示的である。
ソシュール:記号表現と記号内容はそれぞれ互いを必要としている。肉体と魂の関係。
ソシュールの差異の概念:一枚の紙を様々に切り取るとき、それぞれ独自の形をとる。他の形との関係性により差異が生まれ、その差異に縛られることになる。記号表現と概念内容はこの差異により生み出されることになる。

痕跡
音声言語であろうと文字言語であろうと言語の構成要素は単純なものではない。もうひとつの要素と関係を持つことなしには機能しえない。システムの中の他の要素を痕跡として存在させることを前提にしている。

差延…ソシュール的記号の両側面(記号表現と記号内容)を横断する形で現れる。
差延は知覚可能なものを超えている。知覚可能なものには空間、時間的なギャップが必要であるが、この溝は十分に認識されたことがない。音声言語における音と音の間の間、文字言語における紙面の空白や句読点。
差延は理解可能なものを超えている。知覚可能なものは理解可能なものの内にあるからである。
ようはどっちつかず。

オースティン
言語遂行文:言葉とともに何かを行う。結婚、主張、開幕など
事実確認文:真偽、何かを含蓄するのではなく、表す。
しかし、劇や詩における引用的なもの、単純反復、再利用している言語は別枠で考える。
デリダはこれすらも含めて考える。 反復可能性:反復により正確な原義は損なわれる。
ここで、接木の概念:そもそも、反復可能性はすべての記号に見出されるものであろう。引用がいい例である。「私と夫は」→「彼女は言った「私と夫は」→「先週私は言った「彼女は話を始めた「私の夫は」」」
書くということは常に盗まれた言葉で書くことに等しい。
署名の疑わしさ:署名は日々なされるが、それは反復行為。反復行為ゆえにそれは無意味なものとなるであろうか? 反復可能性は署名を可能にする条件であるが、同時にまたその不可能性の条件とも言える。厳密な純粋性は保ちようがないということ。
ここで述べたいこと・・・コミュニケーションの反復可能性→管理不可能性・誤認性→伝達不可能性。  しかし、それは成り立つ。署名が成り立つように。

脱構築:自らを不可能なものと認めたところで失うものなど少しもない。脱構築の実践にとて、可能性というものは危険である。使いやすい揃った方法、アプローチに陥ってしまうかもしれないからだ。不可能性の経験(証明ではない)こそ、脱構築の利点。

エクリチュールと文学
文学や哲学には保証された本質などない。一定の強力な合意のもと基礎が前提として積み上げられてきたに過ぎない。科学には自然現象という保障がある。哲学と文学を混合汚染することで何をえられるのか?を実践したのがデリダ。
マラルメの詩:普通は複数の意味、暗示を詩的に示したとみなされるが、デリダは単語の分解として読む。「Or(黄金)」を詩文に見出していく。そして、作者の人性・旅・家族などを声がかれるまで語られるべきであると述べている。

言説の有意味性を測定する絶対基準など一切存在しない。
デリダは解釈の限界を探し出す。ここに限界とは標準的な批評の手法が頓挫し、保障済みの解釈法が失敗する地点を指す。解釈者の「フレーム」内でのみ作品を解釈することを批判する。もちろん、それを一手段として用いるのは宜しきことであろう。

カントの分析によるフレーム:内部を囲い保護しながら外部も作り出す枠。そしてこの枠を保護する枠、枠…  この枠は絵の枠に当てはまる。内部と外部を絶つがコミュニケーション可能なものでもある。 内部と外部の両方に開かれた枠は作品を纏め上げるが、それを超えれば作品が崩れ去る境界でもある。作品を作り、壊すものである。

絵の具で影を縁取る絵画を見て・・・
画家は盲目:対象またはモデルは画家に向かい合っているにせよ、絵というしるしが制作されるまさにその瞬間には見ることができない。ギャップが存在する。そして、描くことは記憶に依存することになる。このとき、目の前の対象はむしされる。
描くプロセスは盲目:現前と不在の戯れなしには不可能。

脱構築:一種のニヒリズム?通常前提とされているものを問題にするからよくいわれる。
脱構築は政治的かつ倫理的な含意をもつ。
結局、デリダがやりたいことは「文学作品・哲学は偏った見方に縛られず、縦横無尽に解釈してもよい」ということか。哲学に抗い、挑発し、新たな動きへと掻き立てる活動にこだわった。

最後にフェミニズム論争
脱構築の実践と革命的フェミニズムは相容れない。 革命的フェミニズムは反発的であり、功利主義的であるから。(レヴィナス愛の現象学参照)
実践を相手にすると、デリダの脱構築は困難な面に遭遇する。脱構築が論理的なコミットを行わなければならないとするなら、それは基礎付けられた価値を必然的に受け入れなくてはならなくなるから。

ソシュール

ソシュール

言語の起源は擬音語・擬声語であろう。

地球のどの場所にも、一つの言語状態があり、それが週ごと、月ごと、世紀ごとにゆっくり変化している。
               通時
         ラング <          連辞
ランガージュ <       共時・・・体系<
         パロール        |   連合
                        |          シニフィエ
                     辞項・・・シーニェ<
                                    シニフィアン

月並みなラングの組み合わせがパロールの中で変調をきたし、そこから詩の様な新しい意味が生じてきて、あれこれ試みられたあげく、忘れられたり珍重されたり、ついには自然沙汰によって存続し続けたものがラングに登録されていく。

通時:時間軸に沿ったとらえかた  共時:同時代的な捉え方
体系の中にあるエレメントのことを辞項(テルム)とよぶ。 テルムは相互依存の状態にあり、関係こそがその存在を成立させている。

ラングの中の新語:モザイクのように付加されたり削除されたりするのではなく、常に体系の組み換えとして表される。

不定形な思考にも音声にも、言語記号によって始めて明確な形が生じる。
シニフィエはシニフィアンほど確固としたエレメントは取り出せない。

記号素:ぎりぎりのところで記号とされるもの、記号の最小単位で表されうるもの。

メルロ・ポンティ:フッサールの超越論的主体性を受け入れない。超越であることが、観念論の元凶そのものであると述べている。

私たちの思考や行動は当人の使う言語体系によって左右される。物事の意味を決定するのは近代的主体としての個人の意志や努力ではなく、その所属する社会・時代による。

フーコー:文化圏や時代が作り上げる独自の認識構造を「エピステーメー」とよぶ。個人のものの見方、選択は、すべて時代や社会から強制される意識化のシステム=構造によって大きく規定されているのであり、実存主義者たちが自由な自己決定と考えているものの多くは、実は、かなり表層的な行為に他ならない。

ラカン:鏡像段階…他者からの様々な働きかけを通して他者から自己へと一種の歴史粗描がもたらされ、以後、個々人の捉えどころのなかった無意識のうちに、過去と未来とが刻み込まれていくような構造契機でもあろう。
ラカンのシニフィアン(事物・現象の定格)の連鎖。

キュビズム:対象を様々な様相に解体して表現するから換愈的。
シュルレアリスム:対象を変容させることによって表現するから隠喩的。
前者は「一杯飲んでく?」  後者は「男はみんな狼」

バルト:坂は作品の隅々までを支配するものではなく、作品の意味もまた一元的なものではありえない。読者の読みに触発され、そこに意味を生成させるのではないか。作品の一人歩き(表象芸術とおなじ)

コノテーション:シニフィアンのもととなる「シーニェ」 
メタ言語:シニフィエのもととなる「シーニェ」

ジンメルコレクション

ジンメルコレクション

ある価値やある感情が一つの面で高まっている時に、他の面でも高まっていると連想する。

ただ、芸術作品だけが世界全体が一つの全体であるような意味で一つの全体でありえている。作品の額縁によって物の多様な分散性というものから確固と分かたれている。

男性:現時点だけで自己解決可能となる完全な自由を獲得する。浮気性。

世間はどうでもいいような盗みにはこだわるが、それと同じで通りに立つ哀れな娼婦達に対しては道徳的な憤怒の全てを投げつける。しかし、娼婦が高級であるほどその矛先は緩む。

貨幣と女性の交換性:女性の地位が低いほど、個人であることが少ないほど、商品と値段の不均衡がないということになる。

世間は義務が難しければ難しいほどその義務を厳格に課してくる。

社会全体の展開の最終的な理想といえるのは、身体的=官能の発現と精神的=性格の発現がうまく調和し、両者が時間的にずれることがないという状態。しかし、文化の増大によって両者は引き裂かれてしまい、難しい状況が生じた。

ルネッサンス期の女性::様々な教養を積み、外で活躍するきかいが多くあった。この時期のイタリア女性のファッションは突飛なファッションが流行した記録はない。他の領域で個性化が上手く達成できていた。


取っ手:容器に権利要求をする外界と、そのような外界にかまうことなく自身のために権利要求する芸術形式の、二つの要素が埋まっている。両者のバランスが大切。
これを実社会へと応用する。個人もひとつのサークルの有機的な完結性の内部での役割を保持することを生の芸術から要求されている。しかし、個人は同時により大きな統一体の目的にも仕え、その奉仕を通じて、より狭いサークルを周囲のサークルの中に組み込むのを助ける。
一方の全体性が他方の全体性を、引き裂かれるということなしに、捉えるための手がかりとなること、これこそ、人間の世界観、世界構成における最も素晴らしいことだ。

扉:壁は沈黙しているが扉は語っている。人間が自分で自分に境界を設定しているということ。しかし、その境界をふたたび廃棄し、その外側に立つことができるという自由を確保しながらこれを行っているということ。これこそ、人間の深層にとって本質的なことだ。

橋はどちらの方向にも、常に開かれている。扉は片一方にしか開かれていない。窓は内部から外部に対する一方方向にしか開かれていない。意図を持って両者を行き来することができるのは扉においてだけである。


ヴェネチア:フィレンツェの城のような外観を備え、権力の厳粛な、華麗な展開、それら全てが自身と自己責任を背負う人格の表現である。これに対し、ヴェネチアは気取った遊び、包み隠すヴェールといった自分自身の美の法則にしか従わない。
ヴェネチアではあらゆるものが美しさの全てを表層に集め、自分自身は引きこもって後ろのほうで表層の美を見守っている。


額縁:自己自身のための世界となり、自分にとって外的なもの全てに対して自分自身を閉ざす。芸術における境界とは、外に向かっては無関心と自己防衛を、内に向かっては統一的結束を同時に実行する無条件の隔絶を意味している。

大きな画においては、他の者への視線がそれほど大きく関わってこないためさっぱりした額縁でよい。しかし、小さな画においては、周りのものとの隔絶を図るため、仰々しい額縁が好まれる。

芸術作品とその環境のあいだを分離しつつ相互に媒介していくという課題を、額縁が視覚的なものの中で解決していこうとすれば、額縁が前景に出るべきか背景に退くべきか、エネルギーは放出すべきかせき止めるべきかといったことについて、細心の注意を払って考察していく必要がある。  
これは芸術に限ることではない。個人と社会の相互摩擦にいおいても(内が個人、外が社会)同様に考えられよう。

実生活では絶えず要求されている外的なものから内的なものへの心理学的推論などは、芸術家には不要である。芸術の守備範囲を最終的な意図は内的なものにではなく外的なものにあるからだ。


芸術作品の内部に宿る魂とは、実のところ芸術的なカテゴリーと要求にのみ由来し、かつ呼応する特殊な理念的構築物であること、このことが認識された時はじめて、自然主義はいわば潜伏先の最後の隠れ家から追放されるように思える。魂が魂を生み出す。

大理石:白さと光沢によって石の重量感は軽減され、精神化される。身体としての単なる空間がそこには備わっている。柔軟で形と力にもっとも柔軟な素材であること。しかし、実態は非常に重く扱いにくい。人間の力と自然の力との大きな闘争を経て、彫刻の美が生まれるのだ。

いったん悟性と計算と均等化が生に浸透してしまうと、美的欲求は再びその反対物へと逃げ込み、非合理的なものとその外見的形式であるアシンメトリーなものを探し始める。均一化は組織においても(カール五世など)重要視される。より小さな抵抗で予想可能な仕方で、外からの刺戟に対し対応することが出来る。

私達の中に類が生き延びている限り、私達に快感を与える事柄、それこそが私達にとっての美しいものなのかもしれない。その対象の現実的な有用性は、長い時間にわたる歴史的発展と遺伝によって、濾過されてしまっている。しかし、まだまだ発展の余地はあろう。問題はどのような新たな美を我々が感得するのかにかかっている。

高揚した自我は世界からあまりに多くのものを要求するのに対して、社会主義は自我の生活圏を制限することによって貸し借りのバランスを回復し、自我の破産を食い止める。

私達の内なる最高のものが、更なる影響力を発揮しようとしても、適切な取っ掛かりが見つけられないことはよくある。悪は単なる意実としてそこにあるに過ぎず、積極的にそれに立ち向かうのは悪自身ではなく、我々のほうだ。

和解と救済。和解を求めると、新たな問題が浮かび上がってくることは良くある。それは、永遠のいたちごっこのようなものだ。

一度に高い入場料(答え)を払うよりも、中に入ってそのつど小さな犠牲を払うことによって克服される障害を絶えず与え続けるほうが、娯楽の達成はより徹底したものになる。

万博と大見本市:前者は世界各国から物品が集まるが、後者は多数の街から物品がああ詰まる。国内ならば、ほどよい心地よさを生み出し、相対的な対比や強調が作り出される。


よそ者の客観性:身近の人に話せないようなことも、旅人には気楽に話すことが出来るということ。ユダヤ人の特権…国なき客観人。

今日の私達は以前よりずっと深く商品供給者に依存しているが、供給者個々人について言うと、いつでも思い通りに取り替えることが出来る。これが、必然的に強い個人主義を生み出す。全の思考ではなく、個の思考で人生を賄う。

あるものの価値が値段によって決められていく。物が持つ特殊でもっとも個性的な魅力を感じ取る繊細な感受性はひたすら退化していくほかない。

サルトル

サルトル

現象学
フッサール:意識の主観的な特徴と客観的な特徴をさぐる。
精神状態の背後には多くの仮定がある。この仮定を取り除くことを目的とするのが「現象学的中断」「エポケー」である。

今ここの経験がすべての意識の現象学的零度である。フッサールは純粋な意識の現象学的研究から「純粋自我」「絶対自己」を導きだそうと試みる。

自我の超越:非反省的意識→乗るべき電車を意識する自分 反省的意識→電車を逃したおろかな自分を意識する。後者は二段階的に自分を意識している。前者においては思考の内に自己は存在しない…とサルトルは言うが、思考という行為そのものが自己につながるとデカルトは言いたかったのであろう。
サルトルは「自我の本質的な役割は、意識に対してまさにその自発性を隠蔽する事である」

キルケゴールによる「原罪」 アダムが自分の自由に対峙した際に感じる恐怖ないしは不安。人間の誰もが自由に対し恐怖・不安を覚えるのは間違いない。

嘔吐:人間的経験―世界―存在  主人公ロカンタン
実存を扱うために人間的に創造された世界がある。その世界が存在するために「言語、理論、伝統習慣」が存在する。
直接的に実在と向き合うことはない。人間的な制度を媒介にしてかかわっている。
存在の偶然性:絶対的に不条理なもの、それが「存在」 言葉や伝統などは剥ぎ取ることが可能であるが、存在は消し去ることができない。エポケーにいたると、存在の偶然性(人間の世界での事物の認識ツール)があらわになる。この偶然性は「余計」に付加されたものである。
ライプニッツ:偶然的な存在のすべての鎖の最後→必然的な存在(存在しないことができない存在、神)でおわっている。  あるいは  鎖が無限であり、ある存在状態から次の存在状態へ、また次の存在状態へと連鎖を繰り返す。無意味の遅延。あらゆるものの不条理。
神に至ることができない我々は後者に陥るのであろう。

サルトルの実存主義:実存の不条理性を引き受ける力と勇気を人間の意識に与え、意味のない世界に意味を想像する能力を開示しようと試みる。


対自存在は無によって自分の過去から隔てられている。過去には事実性があるが、今の私がすることの「根源」ではありえない。「要因」ではありうるが。
意味の源泉には故人の側の決定にある。いつでも変わりになる意味解釈はありうるが、何らかの要因で「過去の事実」に縛られた選択を我々はなす傾向にある。過去の事実を持ち出してくる理由は、「未来に対する不安」がある。

では、なぜ絶えず不安を感じていないのか?
選択を行うということと選択を行わないとうことの違い:自分で対象(選択)に対して意味を与えているのか与えていないのかによる。根源的な価値体系を存在させているのは私自身である。

価値
価値のリアリティ:価値を持つから選ばれたというよりは、選ばれたという事実からそのリアリティを持つ。価値は我々が自由に選ぶことができるという条件下で生まれてくる。

自己欺瞞:不安や恐怖からの逃避。自身に対する嘘
役割は根源的な自由を制限したり、隠したりする。我々は役割により他人や自分自身をいっそう容易に対象化してしまう。役割は自己欺瞞への避けがたい誘惑である。
対自存在は常に定義不能で不完全で、自己抹消の可能性を持つ。

他人
他者を見つめることで私は彼を対象化し、彼を私の対称に変えてしまっているにもかかわらず、彼は私にとっての脅威となる。 他者の自由が私の自由を拘束するため。他者を見るということは常に「他者によって見られる可能性があることを理解すること」である。
神とは他者の概念を極限まで推し進めたものに過ぎない。

責任
自由は重荷だ。我々の選択の一つ一つは抵抗、困惑、障害を生み出す。
悲劇的な瞬間においても我々には逃げ出す、自殺するという選択がある。しかし、これをしないという選択を選ぶことは、自ら悲劇を起こす主観者と同じ立場にいることを意味する。

自己とは全体である:根源的投企はすべての行動において現れる(意識の度合いはあろうが)
我々の行動や選択を通じて各瞬間的に的に再創造されていく。自分の顔はまさに歩んできた道そのものである。

フロイトが言うような無意識的な事実などは存在しない。すべては意識の元にある。要はすべて我々の選択により「今の人格を備えた」存在がある。

「我々の責任は大きい、それが人類全体を巻き込むからである。」
これは、我々の選択の連続により故人が形成されていくが、その選択の判断基準は基本的に「世界基準」に依存しているからである。
カントはいう「あなたの行動が他の誰にとってもモデルとなるように行動すべきだ」

全体化:一見ばらばらの行動と出来事を総合的な全体へと収瞼することを意味する。ひとつの歴史のある時点をとれば、それこそが歴史の総和であり、全体を現している。そのある時点は「今現在」の解釈をえて積み上げられているからである。ロシア革命の直前とロシア崩壊直後の社会主義にたいする見方の違いみたいなもの。

個々の実践のうちには可能性と自由がある。それは制度的な形態を生み出し、実践的惰性態と呼ぶものになる。これは未来の実践を支持する歴史的な重みであり、実践の可能性を奪うことになる。

2010年10月18日月曜日

カントの批判哲学

カントの批判哲学

○純粋理性批判
我々が経験により与えられるものを超え出でるとき、主観的な原理が付随する。
客体と主体の調和(合目的的な一致)ではなく、客体の主体への必然的従属。これにより、理性的存在は自らが新しい力能の持ち主であることを発見する。

認識の構成:単に多様なものを総合する作用だけではなく、表彰された多様なものを一対象に関係付ける作用もそなえる。何らかの対象は意識の統一的相関項である。ここで、理性と悟性に二分されてくる。

「悟性」:あらゆる現象がその形式の観点から見て従属している法則、しかも現象がそれに従属することで<感性的自然>の一般の形を成すことができる。
互生の判断は総合的統一に基づいて判断を下すのみしか行えない。

「理性は推論する」悟性概念があたえられると、理性は中間項を探す。無制約である点において、理性は神である。
純粋理性は悟性概念の使用における絶対的相対性だけを自らのために(これが無いと理性が存在しえなくなる)とっておき、カテゴリーにおいて思考される総合的統一を絶対的に無制約的なものにまで連れ出そうとする。
理性とは「すべてはまるで…であるかのように進むと述べる能力である」

共通感覚なしには認識は伝達されえなし、普遍性を主張することもできない。諸能力の一致(悟性概念の元に一致はうまれる)は様々なつりあいにおいて可能である。

悟性は本来現象にのみ適用されるべきであるが、その悟性概念を自体としてあるものに適用しようとすることもある。この、悟性の超越論的使用は、悟性が自らの諸々の限界への注意を怠っていることに由来する。これに対し、理性の超越的用は、悟性の枠からわれわれを飛び出させようとする。
悟性の超越論的使用:悟性がそれ自身(悟性的な概念)で、物一般を認識することを望むこと。
理性の超越的使用:理性が自身(理性を惹起している思考)で、ある規定された者を認識するのを望むこと。
理性においては最高次の関心の影を他の関心に投じられる。一種の錯覚製を我々に生みつける。これに対し、悟性は、想起された瞬間に終わる

     実践理性批判

欲求能力:自分自身の中に自分自身を規定するものを見出す場合に厳密な意味で意思と自立的意思と呼ばれる。この欲求に立法行為を行いうるのは理性である。

自由の概念:客観的かつ積極的。ある規定された実在性を与えている。

自然概念による立法:悟性が認識能力ないし理性の思弁的関心のなかで立法行為を行う。
自由概念による立法:理性が欲求能力において、自らの実践的関心において立法行為を行う。

悪の認識:ある格率が超感性的自然の実践的法則として考えられうるか?→理論的諸法則の形態との類比においてなしうる。理性は因果性それ自体を類比によって自然を形成するのに適した因果性として規定する。類比しうるのは理性であり、悟性ではない。

批判を必要とするもの、錯覚の根源となるものは実践的な純粋理性ではなく、経験的なもろもろの関心がそこに混入する不純性である。

思弁的理性の対峙・比較を想起することを告発するのが、純粋理性批判
立法行為を行わず(可能性にとどまる)、経験的に条件付けられるのをそのままにしておくこと(思弁を排する)を告発するのが実勢理性批判。

幸福は徳と結びつけ得ない二律背反性:道徳法則へといたる(徳)には立法行為が必要。しかし、実践理性において立法行為はなされえない。また、感性界の法則(幸福)は、よき意思の意図にはよっていない。

感性界と超感性界:前者が模型であり後者が原型である。前者は後者の理念から生ずる可能的結果を含んでいる。自由な原因は純粋に可想的である。超感性的自然は自由な存在が理性の法則の元で形成するものである。
自由な原因(超感性界):自らのうちにその結果を持つことはない。何も到来せず、何も始まりはしないから。自由な因果性(感性界):感性上の結果以外の結果をもたらさない。ゆえに、この自由な因果性は「諸現象に対しなんらかの因果性」を持つはずである。

しかし、感性的自然を獲得するには、超感性的な何かを表現ないし象徴する能力が必要になる。感性的自然は「前提」を必要とするためである。ここで構想力がでてくる。

構想力:悟性の一定の概念に依存することなく、自由に働くこともあれば、自らの限界を超え自らを制限無き者と感じて、理性の諸理念に自らを関係付けることもある。道徳性の認識、道徳的共通感覚は構想力のもたらす作用を伴っている。ニューロン的な役目。どことつながるのかは定められていない。

信仰は思弁的命題であるが、道徳法則から受け取る規定によって初めて実全的となる命題である。認識の対象としては、間接的・類比的にしか規定されないが、信仰の対象としては、実践的な規定と実在性を獲得することになる。

すべての関心は実践的なものであり、ただ実践的使用においてのみその完成を見る。

     判断力批判
美的な快は思弁的関心からも実践的関心からも独立しており、それ自身完全に無関心なものとして定義される。高次の形態の元での感情能力は立法行為を行わない。常に個別的であり、総合的統一性がそこには存在しない?
一定の概念が介入するごとに美は自由であることをやめ、同時に美的判断も純粋絵あることをやめる。ただ快のみが美的判断において普遍的で必然なものとして提示される。

美的判断にとどまる限り、理性の介入はない(美的判断は絶対的肯定の判断である)。
しかし、崇高においては理性の介入がある。構想力が限界に直面し、なんらかの感性的自然に帰する。感性界の広大さをまとめるのが理性である。理性を除するに当たり理性を必要とする。ここにおける構想力の力は理性の力なしには発揮されえない。はたして、これが美の感覚にも当てはめられるのか?
美の感覚の発生は客観的な射程を持った原則を要求してくる。美的なものへの関心は、美の感覚の構成要素ではなく、自然における美の算出にかかわるものである。
美の感覚の発生は悟性概念の中に含まれているものよりはるかに多くのことを考えさせる。悟性の無制限性により、構想力も解放されることになる。
あらゆる能力の無規定で超感性的な統一、自由な一致は魂において最も奥深いものである。

美的理念:自然の中にそれに対応する対象がない。われわれに与えられているのとは別の自然(考えさせる自然)についての直感を想像するからである。

カントの言う天才:自然美についてのもろもろの結論を芸術美へと拡大する規則を提供するのが天才。天才を持って、理性が喚起され、構想力を開放し、悟性を高次のものへと高めてきたのかもしれない。
判断力はいかなるときも何物にも還元できない独創的なもの。判断力は諸能力の一致において成立する。この一致は立法的役割を果たしうる。われわれの諸能力はその本姓において異なっているが、自由に自発的に一致をなすのであり、この一致により各々の能力がひとつの主の下で行使されうることになる。

悟性は、アプリオリに諸現象の内容・現実の経験の詳細、個別の法則を規定することはない。自然の可能性とその産出については意図に従って作用する原因を思い浮かべるほか判断を下すことはできない。


共通感覚:諸能力の一致。
我々は物自体ではなく、その現象に対し法則を当てはめそれを認識している。これが客体の主体への必然的従属である。
自分自身の中に自分を規定するものを見出す場合、自立的な意思となる。道徳的な共通感覚とは理性の主導のもと行われる理性と悟性の一致である。
美的判断における理性・悟性・構想力の一致。共通感覚の発生。この発生は自然と諸能力との偶然の一致により創出される。ここで生まれる共通感覚が、後に生まれる純粋理性・実践理性を生み出していく。

オタク学入門

オタク学入門

現在のオタク:他ジャンルのオタク知識・見識は知らなくて当たり前。自分の興味あるところだけしか深くない。

オタクは自分で好きなものは自分で決める。世間が自分のことをわからなくて当たり前。仲間はずれにされても気にならない。

岡田の言うオタク:世間とは別の価値観を持ち続けるには、知性と意志が必要。その両方を兼ね備えている人間がオタク。

エヴァの衝撃:それなりに歳を重ねたオタクは、そこに投影されている「哲学・社会学」的なものを見出す。わかいオタクは感動した作品のスタッフや前作などの関連性には興味ない。ただ、「同じ様な感動を与えてくれる他の作品」に走る。

今のオタクは第三世代。第一世代のような「人生を捨てて趣味人として生きる」覚悟もない。第二世代のような「熱くアイデンティティーを語る」本気さも持っていない。生まれながらの「金をむしられるだけの存在」である。

強いオタク:世間からの冷たい視線を跳ね返す知識と意思を持つためには、自分の好きなものだけを観ていてはダメという感覚があった。

わかりやすい映画はわかりやすい解釈を好む。その先に進めるか進めないかは、その人の意志に大きく依存する。⇒必然的に大衆は楽チンな方向にすすむ。

第二世代のオタクの弱点:アカデミズムで取り上げられた論考をそのまま鵜呑みにしてしまう。一種のエリート主義。

文化を維持するには、それなりのプライドとか誇り、良い意味での排他性が必要。今のオタク世代には快楽主義しかない。

オタク文化の成立には、「子供っぽい大人」「大人っぽい子供文化」が両立していることが必要。境界線が無いのが特徴。

無理して大人になるよりも楽して子供っぽく生きる。 日本の全世代・前回層が無意識に求めている生き方。 何かあると責任者に土下座させないと気がすまないマスコミ。

ウパニシャッド

ウパニシャッド

サンスクリット語でウパニシャッドは「近くに座す」を意味する。

讃歌・祭詞を収載する部分をサンヒター(本集)、その用法・意義を細説する散文部分をブラーフマナ(梵書)とよぶ。
森林中において伝授されるべき秘法・秘儀を載せた部分をアーラニヤカ(森林書)、宇宙万障の一元を宣示する哲学的な部分をウパニシャッド(奥義書)と呼ぶ。

ダクシャ(能力)はアイデティ(無限)より生じ、アイデティはダクシャより生ず。これはいささかブラフマナパティ(創造神)の位置を不明瞭にしている。

一元的…相対的有無の観念を超越した太初の状況を描いては、空界・天界無く、昼夜を別つ日月なく、死も無く不死も無く、暗黒に覆われた原水の内に、風なく自ら呼吸する絶対の唯一物を点出し、これに思考・創造の意欲・熱力の発動する次第をのべ、万有の展開をその陰陽ニ力の作用に帰している。

有は無より生ぜり…無は単純なる「虚無」の義ではなく、「名状すべからざるもの、隠微不可視なもの」を意味し、明瞭なる形相あるものにたいして用いられている。

ブラフマン()とアートマン():梵とは、神通力を意味し、宇宙の根本的創造力の名となった。我とは本来気息を意味し、生命の主体と目されては生気となり、内面的・本質的に解されて「本体・精髄・自我」を意味するに至った。

もし個人の生活機能が、一々自然の威力に相応しているならば、各個人はすなわち小宇宙であり、大宇宙の模型というべく各個人の本体は同一であり、大宇宙の本体と一致せねばならない。

梵は自ら見るものであり、自ら聞くものであり、自ら思考するものである。外に見者なく、外に聞者なく、外に思考者ない。

欲望亡き者の死:欲望無く、欲望を離れ、我のみを希求するものには、かれは梵となり梵に帰す。荒れ狂う五感を意の手綱によって支配できる者のみ最高位に達することができる。

梵・我は善行によって大をなさず、悪行によって小を減じない。梵・我は絶対善にして、清浄無垢である。
人は三徳(制御、布施、憐憫)を習得すべきである。これは最もだ。

ウパニシャッドは個人我と根本物質とを峻別し二元論を出張するサーンキヤ哲学(数論)、サーンキヤ哲学と基礎に精神統一の実習を強調するヨーガ哲学とも密接な関係にある。


多くのものは聞くだに難きもの、たとい聞くとも多くの人は知り得ざるもの、そを説く人は稀有なる。そを得る人は賢人なる。賢者に教えられて会得する人は稀有なる。

2010年9月29日水曜日

もの・こと・ことば

もの・こと・ことば

「コト」が時間の経過とともに進行する行為を言うのが原義であるのに対して、「モノ」は
推移変動の観念を含まない。むしろ、変動のない対象の意から転じて、既定の事実、避けがたい定め、普遍の習慣・頬右側を表す。

日常的な表現があるからこそ様々な事象をモノに算入できる。日本独特の構文がなかったとすれば、国語学的にモノという詞の語義を万象に拡大することは及びもつかなかったであろう。

われわれは日常、事態的に自己同一的なあるモノを想定し、それがしかじかの関係においてはAであり、しかじかの関係にあってはBとなる。

関係規定は当体にとって決して外的・遇有的なものではなく、それはまさしく当体の内実に属し、当体をたらしめている所以の規定性である。
真の実態と呼ばれるに値するものがあるとすれば、総世界的な関係態そのものにほかならない。

現前する「あるもの=図」は彼-此の関係の次元にあるとき(私の価値観のうちで区分可能な次元)、「このもの」・「かのもの」と呼ぶことが出来る(所有格を付すことができる)

世界現相の具象的な様態、作図的な図柄の分節模様は言語的活動の介在によって激変するにせよ、現相「統-轄」の基本的な構成そのものについては“言語以前的な準位”に即して予め考察しておくべきであろう(問題は本論文で考察する対象範囲のフレーミングをどのくらいに定めるかを規定しなければいけないことにあろう)

フェノメナルに現前する諸々の「もの」は、基質的には同等でも属性のあるものについては不等であったり、属性のあるものについては同等でも基質的には不等であったりする。
これらの分岐的書性質もまた、概して内省的に知覚されるものである。

関係の第一次性⇒実体 第二次性⇒関係 と我われは捉えがち。いな、これすらも考えられない人は多数存在しよう。 実体あっての関係?しかし、言語において存在しないものについて語る時、実態はどのように考えるべきであろうか?



あるものを分岐的と確知したとき、別のある質的規態として策定される。
真っ白な紙の上にある点々⇒黒い模様⇒図(与件)

example  x (a) fa) f(a) A  このように数学的関数的に考えることも可能。
当初のxは他者の思考をめぐって、f(a)へと至りうる。

象徴が象徴として成立するのは、言語を解しての間主観的交通の準位をもっているから。
例えば、異なる言語間において象徴は伝達されえないはずである(互いに相手の言語を理解できないとして)

経験論においては単純な感覚的印象への還元をコトとするのに対して、合理論では単純な知性的観念からの論理必然的な複合化を志向する。前者は直感的でもあり、後者は慎重的でもある。

言語無しに精神のアクチュアルな活動は存在しえない。言語活動と思考活動は不可分な一体をなすに違いない。

言語記号は事物と呼名を結びつけるのではなく、概念と聴覚映像を結びつける。
レヴィの神話と言語機能についても考察するべきであろうか。

D.ヒューム:他の無限な数の観念を抱合しうるのは、ひとえに習慣(各国の文化)によってのみ可能である。

一旦発せられた言葉の意味は、現実の変易とはかかわりなく、いわば自己同一性を保持する。火事という言葉の意味は、火事が消えても、火事の観念が薄れても、けっして消え去りはしない。

学術講演を聴いたり、学術書を読んだりする際、我われは心像の現出を欠いたまま理解が進捗する。その言葉に対して、観念的な像をあてがうことで我われはそれを理解した気持ちになっている。

時枝:「聴き手の受容しうるものは、単に音声あるいは文字であって、限定されたラングではない。聴き手は自らの主体的な統合作用によって、これをある特定事物に結合して理解するに過ぎない。」


言語活動におけるダイナミズムの問題:あるときに、あるモノを指して、あるモノを定義づけた。しかし、その当のものは、時間と共に変化しているのであり、あるときに定義づけた当のものではありえない。

関数が同じでも、人により各々の「モノ」にたいする変位が異なる。F(x1) F(x2) F(x3) etc…

記号の凡化:他者たちから矯正される体験を通じて漸次確立するのであり、所与xが所知(a)としてあるのは、単に私という一私人にとってではなく、世人一般に対してであるという間主観的な対他者的妥当性のbeliefが随伴している。

判断にとって、表象の随伴は必然的な契機ではない。従って、判断の意味成体は、それ自身は決して結合表象ではなく、判断の意識作用は表象を結合するはたらきに存するわけではない。

疑問や仮定と判断が別たれるのは、陳述様相の差異性においてである。
⇒自己が備え持つ客観的妥当性の天秤にかけて、「判断」を下す。判断が下せない時、疑問や仮定となる。

「意味」は、言語記号が間主観的交通において媒介的に演ずる指示・述定・表出・喚起の諸機能と相関的に、多重的な諸契機からなっており、単質的に定義付けられるものではない。

「こと」は必ず誰かに属すること。X(a)であるということが誰かに対して対妥当するという存率構造は、認識論的主観に対する対妥当性として捉え返される。


※新しい見解としては、「こと」の諸属性くらいであろうか。ソシュールと時枝の論考の域を脱しきれない間がある。