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2010年11月3日水曜日

デリダ

デリダ

哲学とはエクリチューるによって成り立つ。したがって、それを綴る言語、メタファー、文の彩に決定的に依存する。文学と同じであろう。

ゾンビの決定不可能性:生きているが死んでいる。生と死の中間。決定不可能なものの恐怖。ここが脱構築への足がかり。秩序あるものに恐怖の毒を吐きながらも、秩序へと回帰していかなければならない。しかし、回帰しない終わり方もある。中間者としてとらえること。

書くことと話すこと:エジプトのトートという発明神→文字の発明。全体の王→タムス
トート「民の記憶と知恵に働くパルマコン(魔法の一服)を発見した」このパルマコンは良薬にも毒薬にもなるモルヒネのようなもの。 タムス「文字を書く者は記憶の鍛錬を怠る。記憶を外的なしるしに依存することになる。これは仮象の知恵である。」文字には不適切な使用の際に、文字を助ける父が必要である。文字自体が「対象」と語ることができないから。ちなみに、言語を録画したものも「文字言語」の内に含まれる。 
しかし、これをそのまま受け取るのはよろしくない。 なぜなら、我々は記憶を心の中に「刻む」こと、「取り出す」ことからも文字言語との善悪がつかなくなってしまうはずであるから。

パルコマス(身代わりの山羊):町の内部に見出される悪であり、町の清らかさを保つために外へ追放しなければならない。内部に存在していながら外部へと追いやられる。双方に属する必要があろう。決定不可能性がここに生まれる。
プラトンが文字を使って「文字言語の悪」を語るが、文字を用い、それに依存している点。

文字言語は無益であるというのが、古き哲学者たちの考え。しかし、文字言語が何をもたらしたか?諸所の芸術、政治システム、資本主義を生み出してきた。発明という観点から見ると文字は大きな役目を果たしたといえる。その役目が良いにしろ悪いにしろ…

現前:次の主張の根拠となる。
真理とは仮象の背後に存在しうる。 神の言葉と真理の間には直接的結びつきが存在する。 時代精神は特定の時代について教え、教えるがゆえにその時代の内部に現前しうる。 写真は重要な瞬間、今を捉えることができる。 芸術家が表現する感情は作品に現前する。

音声言語による完全な現前、文字言語による不完全な現前。
文字言語は書き手の生存そのものを超えて効力を及ぼす。現前の断絶、死の可能性を含む。
死せる意味作用が文字言語の特色。

音声言語と文字言語→現象学と構造主義
フッサールの戦略:●基本的なものだけを残し、他を一切締め出す。●言語の外的部分を締め出す。●意味を内部として取り扱う。 ただ己自身と向き合う意識の問題に限るのが現象学。
表示的記号:意味作用は行うが動的な意図を欠く記号。  表現的記号:意図的な力を備える記号。 落葉が「秋である」ことを意味する。このとき、木の葉には「秋」というような意図はなく、表示的である。
ソシュール:記号表現と記号内容はそれぞれ互いを必要としている。肉体と魂の関係。
ソシュールの差異の概念:一枚の紙を様々に切り取るとき、それぞれ独自の形をとる。他の形との関係性により差異が生まれ、その差異に縛られることになる。記号表現と概念内容はこの差異により生み出されることになる。

痕跡
音声言語であろうと文字言語であろうと言語の構成要素は単純なものではない。もうひとつの要素と関係を持つことなしには機能しえない。システムの中の他の要素を痕跡として存在させることを前提にしている。

差延…ソシュール的記号の両側面(記号表現と記号内容)を横断する形で現れる。
差延は知覚可能なものを超えている。知覚可能なものには空間、時間的なギャップが必要であるが、この溝は十分に認識されたことがない。音声言語における音と音の間の間、文字言語における紙面の空白や句読点。
差延は理解可能なものを超えている。知覚可能なものは理解可能なものの内にあるからである。
ようはどっちつかず。

オースティン
言語遂行文:言葉とともに何かを行う。結婚、主張、開幕など
事実確認文:真偽、何かを含蓄するのではなく、表す。
しかし、劇や詩における引用的なもの、単純反復、再利用している言語は別枠で考える。
デリダはこれすらも含めて考える。 反復可能性:反復により正確な原義は損なわれる。
ここで、接木の概念:そもそも、反復可能性はすべての記号に見出されるものであろう。引用がいい例である。「私と夫は」→「彼女は言った「私と夫は」→「先週私は言った「彼女は話を始めた「私の夫は」」」
書くということは常に盗まれた言葉で書くことに等しい。
署名の疑わしさ:署名は日々なされるが、それは反復行為。反復行為ゆえにそれは無意味なものとなるであろうか? 反復可能性は署名を可能にする条件であるが、同時にまたその不可能性の条件とも言える。厳密な純粋性は保ちようがないということ。
ここで述べたいこと・・・コミュニケーションの反復可能性→管理不可能性・誤認性→伝達不可能性。  しかし、それは成り立つ。署名が成り立つように。

脱構築:自らを不可能なものと認めたところで失うものなど少しもない。脱構築の実践にとて、可能性というものは危険である。使いやすい揃った方法、アプローチに陥ってしまうかもしれないからだ。不可能性の経験(証明ではない)こそ、脱構築の利点。

エクリチュールと文学
文学や哲学には保証された本質などない。一定の強力な合意のもと基礎が前提として積み上げられてきたに過ぎない。科学には自然現象という保障がある。哲学と文学を混合汚染することで何をえられるのか?を実践したのがデリダ。
マラルメの詩:普通は複数の意味、暗示を詩的に示したとみなされるが、デリダは単語の分解として読む。「Or(黄金)」を詩文に見出していく。そして、作者の人性・旅・家族などを声がかれるまで語られるべきであると述べている。

言説の有意味性を測定する絶対基準など一切存在しない。
デリダは解釈の限界を探し出す。ここに限界とは標準的な批評の手法が頓挫し、保障済みの解釈法が失敗する地点を指す。解釈者の「フレーム」内でのみ作品を解釈することを批判する。もちろん、それを一手段として用いるのは宜しきことであろう。

カントの分析によるフレーム:内部を囲い保護しながら外部も作り出す枠。そしてこの枠を保護する枠、枠…  この枠は絵の枠に当てはまる。内部と外部を絶つがコミュニケーション可能なものでもある。 内部と外部の両方に開かれた枠は作品を纏め上げるが、それを超えれば作品が崩れ去る境界でもある。作品を作り、壊すものである。

絵の具で影を縁取る絵画を見て・・・
画家は盲目:対象またはモデルは画家に向かい合っているにせよ、絵というしるしが制作されるまさにその瞬間には見ることができない。ギャップが存在する。そして、描くことは記憶に依存することになる。このとき、目の前の対象はむしされる。
描くプロセスは盲目:現前と不在の戯れなしには不可能。

脱構築:一種のニヒリズム?通常前提とされているものを問題にするからよくいわれる。
脱構築は政治的かつ倫理的な含意をもつ。
結局、デリダがやりたいことは「文学作品・哲学は偏った見方に縛られず、縦横無尽に解釈してもよい」ということか。哲学に抗い、挑発し、新たな動きへと掻き立てる活動にこだわった。

最後にフェミニズム論争
脱構築の実践と革命的フェミニズムは相容れない。 革命的フェミニズムは反発的であり、功利主義的であるから。(レヴィナス愛の現象学参照)
実践を相手にすると、デリダの脱構築は困難な面に遭遇する。脱構築が論理的なコミットを行わなければならないとするなら、それは基礎付けられた価値を必然的に受け入れなくてはならなくなるから。

デュシャン

デュシャン

デュシャン:彼の芸術に対する全ての解釈を、それが非常なこじつけであっても物静かに黙認していた。なぜなら、それらの解釈は人の創造物であると考えて興味を抱いていたからだ。

審査員なし、賞なしという展示をアメリカで浸透させた。

マティスらフォービズム:独特な色とリズムをだすために、しばしば画面に絵の具を単独で用いた。絵の具はそのまま使える「レディ・メイド」となっていた。
キュビズム:作家が主題の外観を写すのではなく、主題そのものを再構築するということに重きを置いた。

オディロン・ルドン:グラフィックアーティスト。内なる想像世界の表出と顕微鏡下で世界を分析するような科学の影響もうかがうことが出来る。デュシャンはルドンの声高に半学究性を唱えるのではなく、控えめで際立った個人主義的態度に模範像をみた。

輪郭だけで描いて、女性を髪で見分けさせ、男性を顎で見分けさせ、計算道理にそれぞれの性別を表している。

「ソナタ」「デュルシネ」:エロティックな光景でありながら、エロティックな感覚が全く失われている。エロティックな動きではなく、静なるものがそこに現れている。

デュシャンの前半の作品(主として絵画作品)からは、ピカソに近い構造破壊型のキュビズムを感じ取ることが出来る。

画家にとっては、他の画家から影響を受けるよりも作家から影響を受けるほうがずっと良い。マラルメ、ポー、哲学人等、20世紀初頭は正に哲学と芸術の時代であったことからも双方が相互に深く関係していたことは容易に読み取れる。

芸術が進むべき道は動物的表現ではなく、知的表現へと進むべき。つまり、より解釈学的になって行くべきであるということか?ある程度の「知識」をデュシャンは鑑賞者に対しても要求する。

ルッセル:新しい意味を作るための観念のこじつけ…これはデュシャンを大きく惹き付けた。デュシャンはしばしば、何を示すのかは判然としないまま、本来の作品さえも越えて何かを暗示する、長くて謎めいた題目を考えた。一種の言葉遊びを大切にした。

カンディンスキー:才能や技、そして活気が多少あれば対象物はカンヴァス上で生命を与えられる。そしてそれが洗礼されたものか、粗野なものかはともかく「絵画」として呈示される。カンヴァス上の物を調和させることが、芸術作品へと続く道なのである。冷めて、突き放した目でそれ鑑賞する。鑑賞家は「技術」を賞賛し、「絵画」を楽しむのである。
 大勢の人が部屋の中を歩き回っては、カンヴァスが良いとか素晴らしいとか思う。言うべきことのある人は何にも言わず、またそれを聴く耳を持った人は何も聴かなかった。このような芸術の状態を「l’art pour l’art」という。
 芸術家は自分の技術や発明、観察力に対して物質的な報酬を求める。自分の野望・貪欲さを満たすことが目的である。こういった感情は、憎悪や偏見、内紛、嫉妬など目標の無い物質主義的芸術の結果生まれるのである。

1912~ デュシャンは科学的概念の根底を揺るがすような様々な発見があった数学や物理学といった分野を追求した。確実な認識の源であると考えていた近代自然科学という分野で不可能論が主流となり、その哲学がデュシャンの新しい芸術の核心を形成していく。

デュシャンが製作し発現した事物間の関係には決して最終段階なるものがない。

一般市民には理解できないが、エリートには理解できる芸術内容なるものをデュシャンは提供した。保守的で伝統にとらわれた従来の芸術とは異なる芸術を創出したデュシャンへの賞賛を呼び込んだ。

デュシャンは、彼の作品に一万ドル出すといわれても、全く興味を示さなかった。金よりも、芸術世界に対する彼の信念なるものの方が、より上位に位置していたのであろう。

ユーモアを通じて考えさせるような作品をデュシャンはたくさん制作した。

「泉」:作品そのものが素晴らしいのではない。日用品を取り上げ、新しい題材にし、見方を変え、従来の意味を壊してしまった所に作家の力量なるものを見出す。

デュシャンの詩は「行間」の雰囲気のように、何も語らぬままである。いつも形式や発想や感情が混ざり合い、重なり合って変容し続けている。

デュシャンは全作品を俯瞰し、ここの部品が変換可能であることを強調した。

「何故くしゃみをしない?」:この作品に込められた思い…くしゃみ=むずむずする異物を外へ追い出す。同じように、デュシャンはむずむずする従来の絵画価値基準なるものを追い出したかったのであろう。

ジョジョ 

ジョジョ

マンガ:空想の幅は自由。街の概観のみならず、生活している人間を放つことも、歴史を与えることも可能。

荒木は「動き」の通:体の動き(形態)はいうまでもなく、心の動きも明察している。

コマの順を追っていくマンガの読み:正統であるようで邪道。人間の視覚構造に反している。ストーリーの奴隷になりやすい。絵を味わうのではなく、ストーリを味わうようであれば書物と変わらなくなってしまう。
マンガの中身…味覚:分析や解釈はとかく理や思い込みが過剰になるので、料理的に見ると、中身の「味」を悪くしてしまう恐れがある。しかし、同時に新たな発見もある。単においしいという観想だけでなく、このスパイスが甘みをうまく抑えて、結果としてこのような上品な味を可能なら占めているといったような解釈を得ることができる。

拷問:肉体的暴力のほかに精神的暴力が加わる。「手」を「考」えて「問」いただす。

奇にして美、奇は鬼、異形の美で醜と背中合わせである。表裏一体であること。

言葉の「しぐさ」:言葉を発する対象・環境・年齢によりさまざまに「しぐさ」は変貌する。

荒木の描くマンガ:運命から逃避し妄想に逃げ込むのではなく、また運命を単に内面化するのでもなく、運命の固有性を内面化した先で、かつそれを多様な潜在性へと開きなおすこと。

プッチ神父:運命への人間の無力さを絶対零度まで推し進めた。神の意思ばかりでなく、俗らいの出来事すら変えられないことへの葛藤がプッチを悩ませた。
プッチはニーチェのような「全き生命」の覚悟を望んでいた。運命を知ることで、それでも生きていかなければならない。「大切なのは何をなすか」ということすらも解っている世界で我々は「何をなすべき」「何を目的に生きるべき」なのであろうか?

ディオ:「どんな人だろうとひとには適材適所がある。それが生きるということである。スタンドにも同様のことが当てはまる。強い・弱いはない。」人の弱さは一般論では語れない。各人に固有の無能や弱さがある。しかも、それは必ず他者との偶然的で抗争的な出会い=引力を通して露になる。

正しさ/間違いが見分けがたい以上、人は「愛する気持ちゆえに愛するものを傷つける」「愛とか正義を願う気持ちを持つあまり間違った道に迷い込む(はたしてそれが間違っているのか判断しかねるが…)という逆説から逃れられない。

真の無償の自己犠牲:自分でも犠牲にしたという実感すらなく、相手も何かを贈与されたという事実に気付かないような、そういう自己犠牲をさすはずであろう。偉大さではなく、そよ風のように当たり前の犠牲。(レヴィナス参照)
他人は許せるが、自分という「敵」はどうしても許せない。自己嫌悪へのスパイラル。

戦いにおける対話/友愛の芽生え:自己犠牲を真に貫くと、殺意という限界点が必ず通過される。敵に最大の敬意を払い、愛すること。最終的には、敵に自らを殺させてあげること。無力状態の者を殺させることで、敵の精神を新たな次元へと引き上げる。(バガボンドの精神をみるとよい。)

一般的に語られてきた「奇跡」:神秘主義や神の特権的恩寵ではなく、卑近で小さな偶然の連鎖からつむがれているという事実。
この世界では、一つの「賭け」の成功/失敗、勝利/敗北の意味も、卑近な出会い=引力の中で無限的連鎖に決定され、また決定されなおしている。

スタンドという二重表象:一人の人間が二重形象化される。意識的に操作可能である点で、「夢・希望」の具象化された「ドッペルゲンガー」のようなものか。(影の歴史と対比)

マニエリスム漫画(技巧的漫画)とジョジョ
古典マンガ:驕慢(きょうまん)な権力志向や放逸な自我や脆弱な自我のことに過ぎなかった。どれも自己の内部でしか発生収束しないものであった。しかし、マニエリスム漫画は違う。外部へと「悪」を求めるようになっていく。当時の社会情勢などを鑑みるに、晩年の手塚治虫が善悪二元論を越えた悪の表象に力を向けていったのは必然であったのかもしれない。
古典漫画において悪は大前提として措定され、そこから反射的に全なるものの言動も決定されていた。しかるにマニエリスム漫画では悪が議論と沈黙嗜好と積極的実践の対象となり、善のほうは対照的に議論の余地の少ない大前提として祭り上げられている。
ジョジョでは?悪の描写に関して、思想の背景・人間の未来性・歴史的反省をもとに精密に記載されている。

16世紀の絵はほとんど、一目見ただけでは何がその主題なのかわからない。それは、統一と明晰さを第一に重視した古典期の作画法の逆をマニエリストが行っているからである。彼らは画面の中のある部分から他の部分へと隠された盲目を張り巡らせる。異なる時間や同一人物が二人いたりする。もはや、絵を客観的な世界の再現とは捉えてはいけない。「絵を読む」という行為はマニエリスムの作品に合致しよう。

荒木:好きな画家の一人にゴーギャンをあげる。画面をエリアで区切り色を塗っている(クロワソニズム)が、画面全体に遠近法的な奥行きあるところが凄いと述べている。
古典的なミケランジェロから強い影響を受けた一方で、バーネットニューマンなどの記号定名作品を好む。記号性の高い作品にしかない表現方法もあるため、新鮮かつ勉強になるのであろう。

フレームの不確定性:映画において、フレームは一定・不変であろう。しかし、漫画においては不定・可変である。枠組みの可変性は大きな題目となる…後々述べる。

ジョジョ:自らに様々なものを与えてくれる父親や師や仲間に対して同一化している
ディオ:自らと同様に奪いつくされた母親に対して同一化している。

第五部のジョルノ:ディオの血を受け継ぎながら、ジョジョ家の血へと進入していく。与えられたものを身につけ、与えられていないもの(奪われたもの)を渇望する「現代人」の表象か?この「現代人」の歩むべき道を荒木は作品の中で示していく。
自らの運命に気付くと、仲間とともに歩み、仲間の離反や死・苦痛を遺産として受け継ぐことを選んだ。ディオのような他者の拒絶ではなく、他者に向かって自らが開かれていることを選び、他者によって自分自身が変わることを恐れない心を持った。

視線から見る漫画:読者の視線は、常に紙面の真正面から注がれるわけではない。 読者の視線は、平面的にではなく立体的に運動する。 実際の目元からではなく仮想的な視点から注がれる「仮想アングル」が存在する。

コルネリス・ファン・デル・ヘーストの収集室:仮想的な支店から左→右へと差し込むような視線が生まれてくる。頭を動かして、左から覗き見たいという衝動に駆られる。
人間は実際に首を傾けずとも、仮想的に首を傾けたような感覚を頭の中で作り出せる。
(唯脳論参照)
また、紙面全体には「アングル」が現れる。(一枚作品を多数並べた場合はこれにあたらない。)。ページのアングルと、次のコマのフレームの形、フレーム内の内容の流れで読者のテンポは様変わりする。



原則1 焦点移動:鑑賞者のアングルが傾く。消失点やコントラスト、指差しポーズなどによっても焦点は移動することとなる。
原則2 アングルの保存:視線を移動するに当たり、余計な情報を取り込まないよう、跳躍的に次の段へと移動する。
原則3 z軸回転のねじれ:コマ内の構図が斜めになっている場合、アングルは傾く(焦点移動に近い)というよりは「ねじれる」。吸い込まれるような見方を想像すればよい。
原則4 正面補正:注視している面に対して垂直に近づくように傾く。傾斜の強いアングルのコマの次に持ってくることでニュートラルに戻す役目もある。
原則5 変形ゴマ:台形ゴマは奥行きのある面と認識されやすい。
原則6 サイトラインの一致:見詰め合う人物同士の視線をつなぐライン。キャラクターを通しての視点か、キャラクターと同位置からの視点か。

荒木割りは独特。様々な技法を駆使して描く。天才。

シミュレーショニズム

シミュレーショニズム

ジェフクーンズ:百貨店で配布されている無償の贈物を美術市場に取り込んで、いつのまにか数万ドルで流通させている⇒現代美術の無根拠なメカニズムを露呈させた。

これ以上、生産しなくても、消費しきれないくらいの様式が過去に眠っている。

リチャードプリンス:どうでもいい広告の切れ端や雑誌の表紙の一部を、モアレなど気にせず大量に複写していく。これほどまでにメディアが発達してしまうと、どんな風景も場面も、それが殺人だろうと戦争だろうと、予めどこかで見たことがあるありきたりのイメージにしか見えなくなる。写真の撮る行為は終わってしまった。写真にやるべきことがあるとすれば、撮り終わった膨大なイメージの集積に、カメラという媒介を使って揺さぶりをかけ、その都度異なったイメージとして再生させることである。
⇒日本では森山大道などの作品(ブレやボケを積極的に作品にとりこむ)

引用:作家の内面的なコンテクストや表現の動機を膨らませるためになされることが多い。
サンプリング:一人の人間にひとりの個性、一人の作家に一つの作風という考え方を、ばらばらに切り崩して表現の外部へと向けて解き放ってしまう。

歴史上すでに評価の確定しているパフォーマンスを再現することで、その伝説の虚構性(ぜんぜん偉大さも何も感じない)をあらわにする。偽物だからつまらないのではなく、そもそも失われた本物自体がさしておもしろくない。

美術館の外では一万円で、中では一億円。その違いは何だろうか?芸術として認められているかいないかという「信用」だけが、後者の付加価値を約束している。

シンディシャーマン:<ヴォーグ>という作品の中で、過去のイメージファイルから様々なスタイルをサンプリングしてきて、それを自分自身の身体を媒介に編集していく。その編集行為の中で、自分の多様性・複数栄・分裂製といったものを再発見していく。

DJのターンテーブル:記録を再編集し、本来は出会うはずのないもの同士を繋げ、今ある歴史軸とは別の流れを生み出していくための編集装置であろう。
イメージの編集においては、カメラがターンテーブルの役目を担う。



明和電気:下町の中小企業のシミュレーション。制服を着て、表情は無く、ひたすら新製品の開発のために日夜努力する社長をモチーフに採っている。日本における「芸能」と「芸術」のあいまいさをついている。

現代は情報がかつてないほど肥大し、飽和した時代である。「新しさの神話」や自分の個性、自分だけにしかできることをしなければならないという強迫観念や、自我の呪縛から解放されて、いろいろな異質なものとのコミュニケーションのなかに、作家性とか内面性といわれてきたものを解放していくことができるようになった。

ハイパー現実:シミュラクルと化したイリュージョン。真/偽の間隙に連続的な真でも偽でもない領域を持つ多値論理によって揺さぶられる。

新たなる自然を様々にオペレートすることによって傍観者的に戯れて見せる。
シミュレーショニズムとは高度に発達した、というよりも、その極限において機能している資本主義が、強度の反物質的補強において成立させたマッハ主義のバリエーションである。

観念の貧困が甚だしい日本。いまだに一綴りの観念への土俗に甘んじている。
が、近年は面白い作家も増えてきた。

森村泰昌:一個の人間が美術史の様々な局面に扮することができることを肉体的に証明することにより、美術史の見かけの多様性が、そこに偏在するある単一性によってこそ保護されていることを暴露する。
グレッグ&グッドマン:「美術史」を写真による書き割りと化すことによって、その前に立つ生身の人間とのギャップを拡大し、誰も美術史の中には立ち入ることができ無いことを証明する。

サンプリングは対象の本質ではなく、本質と関係ない部分、むしろ不必要とされている部分に深い関心を抱いている。 明示されていない部分にこそ、可能性が秘められている。
この、要約できない部分は、流通しない。つまり、それは交換価値を有さない、絶対価値のみ有するものである。

キノコはオスとメスとの間にそれがオスかメスかが確率論的にしか決定できない「無限」をはらんでいる。


われわれは夢を素晴らしいと表現することはできない。それはただ、魅惑的にたち現れるだけである。なぜなら、夢にあってはわれわれの主観が夢という客観に対して対象的に機能していないからだ。

作品への言葉によるメッセージの付与:身勝手な解釈を許さない。そこでは見るだけではなく、「読む」ことが必要になってくる。

シミュラクルの氾濫:幻影が実在の現実に先行してしまい、われわれのモノの見方そのものを逆規定してしまうような自体。

写真というメディアの特性
写真家にとっては、現実というオリジナルにたいするコピーとしての写真という認識論的な構図、美術家にとっては、写真の現像が無限に反復可能であるという存在論的な事実に目がいった。
複写製と複製性の違い⇒前者は異なるネガによる複数性、後者は同一ネガによる複数性。

偶然描かれた絵画は存在しない。しかし、偶然撮られた写真は存在する。写真においては自己と写真装置と世界という幸福な三角関係は、その起源においてすでに単純なかたちで構成されえないものである。

絵画へのマジックの一筆と写真へのマジックの一筆:前者は絵そのものを己の手・思考によって描いていることから「付け足し」に抵抗感が無いが、後者ではおおきな抵抗が現れる。

写真の上から絵画を描く:個々で写真は二重の死を強要される。絵画の厚みによって死んでいること。そして、装置を作動させたその瞬間に写真は生まれると同時に死んでいるということ。

ポップ:資本主義体制下におけるマス・プロダクト。そこに誕生した美学は、テクノロジーの崇高という種類のものである。その欲望の対象は少なくとも「より速く、より強く、よち大きく」あろうとすることによって現実を異化しようとする意志を残していた。

高度資本主義社会においては、商品の使用価値そのものよりも、それに付随するイメージが商品価値の優劣を頻繁に決定する。しかし、そのイメージの差異も、認知不可能な差異なき差異の捏造にまで到達している(イメージによる過剰すぎる差異化)

インタラクティブアート:鑑賞者に作品を鑑賞する過程を指示・強要する⇒作品の制作者とその鑑賞者は究めて交渉的であり、その共役数としてあらわれる作品の「意味」は、表現者と鑑賞者とのあいだにあって究めて確率論的に決定されていく。

ポンピドゥセンター「大地の魔術展」:アメリカ・ドイツ・イタリア(奇しくも戦勝国と敗戦国!)によって主導されてきた現代美術の各種の「イズム」を無化するかのごとくに、第3世界からの作品と、欧米のコンテンポラリーアーティストの作品を同一空間に並列することによって、現代美術の価値ヒエラルキーを脱色し、そこにフランス性の復権を期した。

今日のフランスが、主に北アフリカからの文化亡命者(サッカー選手などで顕著)を最大限受け入れるその受容の寛容において新ヨーロッパ秩序における枢軸「フランス」たりえようとしている。

2010年10月18日月曜日

シュルレアリスムとは何か

シュルレアリスムとは何か

シュルレアリスムは客観(objectif)のほうを表に出した思想。
日常の約束事と付き合っているうちに、なにかふわっと、みたことのない、未知の驚きを呼び起こす現実が現れたとき、それを「超現実」と呼ぶべきではなかろうか。

現実と「超現実」は繋がっている。度合いの違いがそこにはあるだけ。
超現実は、我々が現実だと思い込まされているような、少なくとも世間一般で信じられていないような法則とか制約のシステムに左右されない、なにか裸のオブジェ(客体、対象)の関係みたいなものをあらわにしてくる。

モノを書くということはある程度automaticなことである。スピードが上がってくると、何を書こうかということを考えずに書く状態がたいていのヒトに訪れるもので、決して特殊なことではない。

「モノを考えるということは、実は私が考えているのではなくて、私が考えさせられている。・誰かが私を考えているということなんだ」とランボーは述べている。

書くスピードをもっともっと速くするとどうなるか。霊媒(肉体)が何かに取り付かれて自分の知らない、考えていないことまで書いてしまう。

幼年時代には、偶然にたよらず自分自身を効果的に所有するということのために、全てが一致協力していた。(幼年時代の思い出からは、何かに支配されていると思わせない感じが浮かべられよう。) 世間が作る「正しい道筋」なるものに支配されない心を持っていた。

エルンストのコラージュ:貼ること。本来は関係の無い別のイメージ(既成の図版などの切り貼り)同士をノリで張り合わせる。
近代人は、絵画・美術作品は人間主体が創造するもので、人間というものは創造する力を持っているという一種の神話を信じていたが、それはウソではないかとエルンストは疑う。創造するのではなく、創造されるのだ。何かに触れない限り、創造は生まれない。真っ白な大部屋で首から上だけの視界しか見えない状況で人間が育ったならば、その人はおよそ何も創造することは無かろう。

デペイズマン(depaysement):本来の環境から別のところへ移すこと、置き換えること、本来あるべき場所に無いものを出会わせて異和を生じさせること。
メルヘンとは何か

メルヘンから一番遠いものは童話であろう。
童話(子供のための文学)は近代の代物で、ヨーロッパでは18世紀以後のものである。17世紀まで、「子供」の概念は無かった。「小さな大人」としての子供があっただけである。当然、彼らが日常に触れる体験・読書なども大人のそれと変わりなかった。

神話・伝説などの起源:夜の時間、閑散期の暇な時に集団の中で話をするという習慣ができた。自然発生的な文学。Culture=農耕=文化は興味深い連関である。

世界中で共通の似通った話があるのは、ある時期に人類は共通する何かを体験していたので、それが自然発生的にいろんなところで「お話」の形で残されたのではなかろうか。

おとぎ話は時代と場所が非限定であるような文学形式で、主人公の名前も太郎や花子などありふれたものであったり、非限定であったりする。逆に、神話では時代・場所・名前が限定的である。

幻想とは:自然の法則しか知らないものが超自然的な出来事に出会って感じるためらいのことである。By トドロフ


ユートピアとは何か

西洋におけるユートピアとは、この世に存在しない、理想的な場所あるいは国という意味であり、楽園とか桃源郷の概念とは異なる。西洋では、「厳戒な法律と整然とした都市」を併せ持つような像を思い浮かべる。

ユートピアの空間では時間がない。少なくとも歴史(史実として残すべき価値がある事実)がない。なぜかというと、理想の社会の中では葛藤は起こらないからだ。もし歴史を描くとすれば、それは「単調な経過報告」のようなものになるであろう。

サドのユートピア:ユートピアを完璧に構築した場合、そこは地獄に近くなる。
フーリエのユートピア:全てが善であるようなユートピア。時間ごとに人間の本性・本能・情念の組み合わせが変化していく単調ではない世界。
両者ともユートピアであるに違いない。問題は、ユートピアの構築の仕方である。

グレン・グールド

グレン グールド


演奏において大事なのは「音楽との接触」そのものであり、公開の場でそれを行うことではない。

芸術とは人の内なる燃焼を起こしてこそ意義が認められるのであって、芸術の目的はアドレナリンの瞬間的な分泌にあるのではなく、驚きと落ち着きの状態を、ゆっくりと一生涯をかけて構築していくことにある。個人がじっくりと考えながらそれぞれの神性を想像するという課題に目覚めつつある。瞬間的なものは壊れやすく、熟成したものは壊れにくい。

拍手禁止計画:聴衆が拍手なしの演奏会に満足し、今後も拍手なしの演奏会を受け入れ、新しいない症的な聴取を求める態度が演奏会メディアに定着していくかどうかを試した。

美的ナルシズム:感動は聞き手が自分の内面で反芻するものである。
しかし、演奏会にあっては伝えたいというコミュニケーションの欲求が美的ナルシズム探究の欲求を上回ってしまう。よって、浅はかな感動しかえられていない。

マクルーハンとの接触も面白い。電子メディアとその未来の可能性。

日常会話の「クリシェ」の洪水に触れても私達の言語感覚は鈍るどころか、むしろ研ぎ澄まされる。音楽も同じだ。・・・とグールドは考える。 無意識的にも触れ合いを多数持つことで新たな構想の可能性が生み出される。そういった意味で、演奏会はどうか?その演奏会が「互いの期待」に基づいているならば、新たな構想の可能性は小さくなろう。

芸術文学は日常会話に属し、音楽芸術は編成された驚きに属する。

音楽の環境化―生活への浸透―を果たし、それを「背景」に創作という「前景」もなされる。前景と背景の関係とそこに参加する人々に注目して新時代の芸術行為のあり方を展望しているとこに特色がある。

詰まるところ、グールドが電子メディア時代の音楽界の「諸相」を詳述した果てに強調したのは、「聴き手」の問題であり、その意識の変化・向上である。
これは音楽に限らない。全ての分野において聴き手の問題は存在する


新種の聞き手によって、聴衆の全てが芸術家となり生活と芸術の区別が消えるのであって、芸術行為は専門の職業としての意義を失う。 演奏家の無必要性。

恐らく我々は、自身が想像している以上に遥かに多くの情報を取り入れる能力を持っていると思われる。

聴き手は絶えず変化・交替していく前景・背景双方の音楽的プロセスを自在に体験しながら、その一瞬一瞬に響くすべてを無意識のうちにも「感受」していく。「よい聴き手」とは、聴取の能動性と受動性、意識と無意識、前景と背景の区別を超えたところで聴覚を発揮する、いわばプロセスの有能な体験者である。

グールドは音楽の演奏家であるよりも、編集を行いパースベクティヴを操る音響の演出家として創造的営為を深めていた。

「あるレコードに対して寄せる最大の賛辞とは、制作過程や制作者のしるし、即ち痕跡が完成品に全く残っていないと認めることだ」

美的なコミュニケーションにフィードバックが伴うと想像し、それが双方向的で円環的な関係を成立させるように感じるのは、送り出した芸術作品が無事に受け手に伝達され、その芸術的価値が適切に理解・共有されているはずだという送り手側の願望や信念が、送り手側の意識の内面で短絡し、自己肯定の擬似的なフィードバックを生じしめているからではないか。

ゴルドベルク変奏曲:情緒の移ろい、集中力の傾注と緩和、身体的な持久力と疲労感といったあらゆる生理的要素が絡み合い、線的に継起し、音楽に反映されている。

鍵盤と指の触感:即時性と透明感を兼ね備えた音を評価すると同時に、「触感」に沈溺することに警戒を示した。

グールドのバッハ観:禁欲主義への共感。享楽を求める周囲に迎合せず、禁欲的に自分の信念を貫く態度という意味でバッハを尊敬していた。

グールドが好んだのは、両極的な二項対立にある「劇的な構造」の音楽ではなく、「劇的」要素の欠如した単一原理に基づく一元的な音楽であった。


グールドの演奏の多くには、聴き手の官能に直接訴える、循環的で反復的な、うねるような律動間が備わっている。 ジャズに通じる何かがそこに感じ取れ得る。 勿論、グールドのそれは内省的反省の下に生み出されている。

全てのフレーズがスタッカートであるとレガートであるとに関わらず、直線的ではなくはっきりと曲線を描き、単なる表現意欲や気分が変わったという次元ではなく、実際に演奏を組み立てていく個々の音型やリズム型といった基本的なイディオムの実際的な扱い方、つまり演奏スタイルそのものに変化が生じている。

「道に遊ぶ」:ただ指を早く動かすことの喜びから、いっそう入念なアーティキュレーションや微弱な強弱を「精神の拡張」としての指先で探り、確かめ、楽しむ傾向が高まったように思われる。
ここで注意するのは、あくまでも内省的な思考の中で生まれた感性を対象としている。

共通のパルスの永続:曲を録音するに際し、一曲が終了すると、次の曲を弾く時、全曲の終わりをプレイバックさせ、そこから録音を始める。こうすることで、完成した全曲から共通のパルスを抽出できる。

北としてのカナダ:比較的米国との文化交流や情報交流がある国境付近の暮らしろ、その背後にある―厳しい自然・畏怖の念・敬遠するべき存在―「批評家の国」カナダのアイデンティティをグールドは持ち出して、「内面の活動」の重要性を訴えたかった。

グールドにとって「想像力」とは、ネガティブなものでもポジティブな営為でもない。この両者を捉えて創造性を発揮する人間の主体的な精神活動の一部であるということが読み取れる。
「皆さんは、システムやドグマという、ポジティブな営為のための訓練を受けてきましたが、想像力に出来るのは、それを前景としさらに莫大な可能性というネガティブなものを広漠たる背景として、これらの間の緩衝地帯として役立つことです。この広漠たる背景とは絶えず検証するべきものであり、あらゆる創造的発想をもたらす源泉として敬意を示すことを忘れてはいけない場所なのです。」

クールベ

クールベ

最後のロマン派

若かりし頃、クールベは昼はボヘミアン、夜はまったく別の市民生活を過ごしていた。夜は若い紳士として生活しながら、昼は生きたモデルのデッサンに没頭した。

「絵画が抽象に堕することを望まないならば、芸術を構成する一つの要素だけが支配してはならない。デッサン、色彩、構図、その他の様々な表現手段が調和して、初めて芸術は成り立つのだ。」

女装して仮面舞踏会へと赴くクールベ。

「私は自分の藝術も、他の流派の藝術も教えることは出来ない。なぜなら、私は芸術の授業というものを否定するからだ。芸術は全く個人的な事柄であり、どんな芸術家の作品も彼自身のインスピレーションと、伝統の研究によって育まれた能力を表現したものに他ならないからだ。」

クールベはアカデミーに背を向けた時、有力な教授達の指示を失った。彼の状況は、困難なものであった。クールベは名をなすためには戦略を持たなければいけないことを早くに悟った。  個展の開催、ネットワークの構築、マスコミの利用。現代にも通じる技をクールベはなしていた。

国の歴史画家への後援:ドラクロワの製作した天井画や壁画などのフレスコ作品は全て国の注文によって生まれたもの。

オルナンの埋葬(300×660):民衆の出来事を歴史画の地位にまで高めた作品。大作の歴史画をみてきたサロンの訪問者を驚かせた。

19世紀後半の絵画は、現実を再現するということに特別の重きを置くという限りで一貫して写実的になっていった。

クールベは1861年に「美は自然の中に存在し、きわめて多様な形で現実の中に姿を現している。それに気付くや、美は芸術のものとなる。いやむしろ美を認識できる芸術家のものとなる。」とのべている。彼にとって重要なのは外的な現実と芸術作品の内的な真実との和解であろう。
「芸術における想像力とは、ある実在する物の最も完璧な表現を見出す能力であり、物そのものを思い描いたり作り出したりすることではない。」
クールベの描写は知的自由をうたう。

「画家のアトリエ」():真ん中にクールベ、右側に友人、労働者、芸術愛好家、左側に通俗的な生活、貧困、富、搾取される者する者が描かれている。この作品で、クールベはきわめて恣意的に自分のアトリエに呼び入れた、社会と現実世界に対する自己の眼差しの自立性と主観性を強調する。

「自然によって与えられた美は芸術のどんな取り決めにも勝る。美は心理と同様、人々が生きている時代と、そしてこれを理解することの出来る個人と繋がっている。美の表現は芸術家が獲得した知覚の力と直接関係している。」

19世紀半ばまで、画家はほとんど例外なく、風景を人物の下位におくか。人物を風景に従属させた。一方が他方を補完するという関係は不動であった。クールベはここで、人物と風景に同等の意義を与えた初めての画家である。二つの要素が互いに競り合う危険性も同時に生まれた。

クールベと印象派の関係は複雑。外光画家にとって、風景は一連の形式上の問題と対決する機会を与えた。彼らは自然と向き合って感じたものを個性的に表現することにはあまり関心がなく、むしろ大気や季節や光の移ろいゆく現象を捉え、画面に定着させようとした。主題としての個性があまりないということであろう。これに比してクールベのそれは凄い。

カバネルのヴィーナス:伝統的写実
クールベのヴィーナス:女性と人類との関係性
マネのヴィーナス:確立された様式に対する揺さぶり

芸術と伝統の問題に対するクールベの見解
芸術的創造は本質的に気質と個性の事柄であり、これらは教えることが出来ない。主題の選択、解釈、そして絵画の製作は現代の世界と結びつき、過去を基準にしてはいけない。同時代の芸術家は真実を創造することに勤めるが、古典主義者は文学的な(聖書等)関連に縛り付けられている。

過去から滲み出したものであろうと、現在のものであろうとフランス人の魂を揺さぶることの出来る全ての要素を活用し、我々が本来あるところのものにする出来事や行動を取り上げる。上流社会でなく、国民生活への統合。

エッフェル塔

エッフェル塔

決して見る側には回らない純粋に機能的な組織体(カメラや眼)と自分自身は盲目でひたすら視線に振り回される見世物のようなものの2種類から世界はなる。(主観と客観)
エッフェル塔はこの二つを完備する塔である。

エッフェル塔は痕跡でも思い出でもない。自然化された人間性を「視覚」によってむさぼり、空間に人間性を戻すものである。構造を主観的客観的に見ることの重要性を示す。

慰安としてのエッフェル塔。抑圧を受けていない状況下で、人間は快楽と同時に快楽の代替物を求める。状況に応じて、都合のいいように事物を捕らえるということ。

橋の神話(両岸をつなぐもの)・・・絆の象徴。複数になると人間の象徴となる。橋の要素からなるエッフェル塔はまさに人間の象徴かもしれない。

エッフェル塔には装飾がない→機能的美。鉄組により風も通すため、何の影響も受けない。ただ、地殻(地球)にのみ影響を受けるだけである。他者が影響を受けることはあっても、エッフェル塔自身は何の影響も受けない。風にたいする征服は、自由な精神(独歩的な)の表れ。

パリ市街に見られる、円形屋根や石などの億町を完全に打破し、パリの象徴まで伸し上った初めての建築物。→権威に対する反抗を助長する機能を持つ。
エッフェル塔は鉄のレース(エロス)

目的なき建築物としてのエッフェル塔。意味をまったく持たないがゆえ、表徴となる。
言語=表徴=エッフェル塔

「単語」の意味とは、人間が独自に作り上げてきたもの。その本質は表徴であろう。「意味なき」言葉こそ、物の本質を表す(表徴)語となる。

ガラス戸(物質間の境界)・・・人間の動作の意味は通さない。事物にたいしては透明だが、意味にたいしては不透明。
バルトにとって断片は重要な構成方法。読み手に対して、書き手の観念を押し付けにくくすることが可能。独自に読み込んで、その意を吟味することの大切さを述べている。


身体の中でもっともエロティックなのは衣服の口があけているところ。隙間、境界にこそエロスは宿る。断固とした立場ではなく、両者の間に立つことこそエロティックを最も発揮できる。

バルトの表徴の帝国が教えてくれることは、他国の人間から見た「日本」はどのようにみえ、日本人との間に日本文化に対する理解に、どのような差異があるかを示している
日本文化の裏面を示してくれているともいえるかもしれない。

2010年9月23日木曜日

ウォーホル

ウォーホル

アンディ・ウォーホルにとっては、芸術はお金を通じて美と輝きを増した。

マリリンモンローをモデルに選んだのは彼女が死んだ後のこと。死が彼女の神秘的な要素を一層確固なものとした。

若い頃のウォーホルは抜きん出た才能を持っていたわけではなかった。

「人の一番綺麗な時っていうのは、本当に外見が流行に乗って見えるんだよ。時代が変わり趣味が変わっても、10年が過ぎ去っても、その様子を保てば、何もかも変えなかったら、もし自分を大切にしたら、綺麗なままいられる。」

スターになるには人々の噂になる必要があった。その噂を作ったのは彼自身である。

ニューヨークにいた頃に熱中したルーベンスやクールベに見る工房(ファクトリー)なる製作現場は、後の彼の作品製作現場とよく似ていた。

ウォーホルの儚い刷り:ロートレックやジャン・コクトーを思い出させる。作品は綿密でよく研究されていて特異性を見せていた。また、彼の最も優れた絵は理解しがたいあいまいな雰囲気を漂わせていた。

芸術はオリジナルではなければならないという原則をウォーホルは覆した。デュシャンと同じ考え方を持っていたが、デュシャンはウォーホルほど富と名声を求めなかった。

60年代の初期にウォーホルは方向を変える。変更前の彼のアートは、シックなデザインにふさわしかったが、あまりに上品過ぎて、ニューヨークのアートの世界の内向的なスノッブたちの趣味には合わなかった。変更後はコマーシャルアートのレベルを芸術的なスタイルや型で仕上げるのをやめ、視覚的にはっきりとした大衆広告イメージで純粋な芸術を印象付けた。 

ロバートヘンリー:作品の美は作品の主題にあるのではなく、作品そのものに存在している。日常的な生活や出来事をそのまま描くことは、視覚的美+哲学・社会学的美をキャンパスに表出させる。


おりしも、60年代初期はJFケネディの「ニューフロンティア宣言」により新しい文化の到来を感じつつあった時代である。

アートそして日常生活でも独自性のみが問題とされるような時代において、後に来た者は関心も持たれないし、敬意も払われない。芸術の世界でさえも、商標が品質を保証するのだとすくなくともそう思われるようになった。

シルクスクリーンテクニック
写真の世界:漫画や消費する物品の商標や芸術作品そのものよりも、実際に起こった事実を表面だけで判断して事実であると決め付ける世界。

ウォーホルとリヒターは、ルノワールやアングル、ドラクロワ、19世紀の芸術家がなしたように、密かに写真を模写するのではなく、堂々と写真を用いた。フィルターを通して出てくる対象に独自の知覚を加えることによって現実を変えてしまう。

おびただしい量と同じ内容の報道の繰り返しは、人々に悲惨な現実への恐怖感を失わせ感覚を麻痺させてしまう。しかし、良し悪しまではウォーホルは問おうとしていない。

将来の予定作品のために雑誌や新聞を集めるようにいろいろなアイディアを集めた。大量生産された写真や日常の生活用品の中に大衆真理を代表する要素があり、これこそ主題になりうると気付いた時、ウォーホルは断固たる反応を示した。全ての絵や生産物がその時代の精神を象徴するわけではない、それゆえ、芸術的価値を持った対象となりうる。コマーシャル価値におけるTPOの存在。

物質が一体どんなものか把握はしているが、機能的な役割を奪ってしまってから、その代わりに工業的な大量生産の既製品の美的な加工にかけた。

ウォーホルの作品は表面的には浅いものに見えるが、決して皮相であると混同してはいけない。「人は化粧をしていないときに一番キスしたくなるように思える。」

飛行機事故、自動車事故、毒殺、電気椅子にみられるシリーズ:ウォーホルの商業的時代にテーマをとった「アメリカ生活様式」の裏返しといえる。彼は、自分の生き方全ては死に関連していると述べている。

絶えず広告の魅力に助けられた慎みの無い消費習慣は、20世紀の終わりに近づくにつれ、裕福な社会の真の怖さを露呈したように思われる。
ウォーホルが描いたもの:途方もなく正確に社会を描いたもの。事実が隠し持っているものを描いた。それはあらゆる人の切望、恐れの「内なる世界」である。

マスメディアでを重要視する社会では、名声は社会的成功の自然の目標で、アメリカでは犯罪者ですら成功者である限り社会的名声を得る。

キャンパスを小分けにし、イメージを普遍的に繰り返した。絵の中で時間は事実上停止している。すなわち、一瞬を捉えようとしていたかのように、同じ瞬間を繰り返している。連続性の逆説を示した。

「東京で一番素敵なものはマクドナルド、ストックホルムで一番素敵なものはマクドナルド、でも、北京とモスクワでは、まだ素敵なものは何もないんだ。」共産主義にはコマーシャルものが存在しない。

ウォーホルの映画作品は見ていて気がせくことがない。ひたすら対照を映し、それが何よりも美しいものであるかのように見せる。見続けることになれることで、無機的空間が有機的空間へと変貌する。つまり、今まで見過ごしていたことに意味を見出すようになるのだ。これは全く新しい手法であった。ゴダールらのそれとは異なる新しい表現技法である。

生の恐怖(過去から逃れられない生の恐怖)と死の恐怖(過去という死の恐怖)。二つの感覚が補い合う関係にあり、この関係は、生活と芸術における彼の信念であった。

「人はいつも時が物を変えるという。でも、実際は自分自身で変えていかなければならないんだ」

社会の仕組みに沿った芸術形式のためのソフトウェアであり、哲学を持ったアーティストであり、同時に藝術としての固有のイメージを育てるハードウェアを生み出した。芸術の世界に新しい次元を加えつつも、芸術自体を傷つけることはなかった。

イノセンス

イノセンス

ロジックでありながら官能的な表現:球体間接
日本:儒教が明治維新で一度途絶える。そのごヨーロッパ的になる。しかし、失敗。もう一度儒教に戻るわけにもいかず、ただなんでも受け入れるようになった。(丸山真男論)

身体がある時点でなくなったというわけではなく、無いことが自分の身体だという本質に気づく。その裏返しとして外部に身体を求めることになる。そんな時代。

大人が子供を育てること:ある意味別の生き物に感情移入し、ゴーストを組み込んでいく営みである。犬、電脳、機械みなが互いの情動をぶつけ合う。垣根がなくなっている。

身体の分節→身体の言語性:身体の各部位が本質的にはばらばらでありながらも、隠喩的な関係性につながっている。
内省的主体は身体的エロスを持つことができず、身体的エロスの主体は内省することができない。自己認識さえも怪しい人間による身体(他者の身体)の象徴化、身体意を喪失した顔面の文化。ここで重要なのは、自己の身体ではなく、他者の身体の象徴化であるということ。  象徴化は言い換えるなら切断作用であり、死の欲望に端を発する。

アニメにおけるリアリティ
ドラマで物語が進行するとき、ドラマは停滞する。物語が転回するとき、ドラマは進行する。これと同じように、アニメにおいて実在するそれに等しい情報量を持ちつつ、しかも映画の内部以外に何の根拠も持たない非在の登場人物が必要となる。この非在が物語を進行させる。

視覚のフレーム性:肉眼で対象を見る行為は、対象を現実のフレームにおいてみる行為に置換された。そしてあらゆる視覚メディアはわれわれの視覚が不完全であることに依拠している。「見ることの真実性」から「見ることのフレーム性」へと移行する。もはや、現実と虚構の二項関係は存在せず、複数のフレームが並立するだけである。これは視覚本来の虚構性が露呈したに過ぎない。(視覚の80%はわれわれの想像によって構成されている)
単一の身体に固有の心が宿るという現実性はフレームの流動性を鈍くする。
イノセンスでは、単一のゴーストが複数の義体に宿りうる可能性を示唆することで、フレームとして複数化する。この複数化が真実を映し出す。

人形の中には独自の表象化の触媒作用が潜んでいる。自己の移しこみのような触媒作用。人形と人間の関係性が人形の魂として擬似物象化する減少は興味深い。
人間の人形への嫉妬:人形は無限の時間を生きる。人間の不老不死へのあこがれ。もし、これに自己の意思を埋め込むことができたら…。

西洋の文化史:旧勢力のイコンが偶像崇拝だと攻撃され、破壊尽くされて出来上がった廃墟が新たな偶像になっていくという繰り返し。近代建築の装飾性のなさへとつながる。

男性の夢見るステレオタイプな女性性の情報に女性の経験値を加味した男性の性欲処理機械。生身のリアリティをえるにはリアルな女性、とりわけ少女の経験値が必要。 少女である理由は、大人は欲望の解放のすべを知っているがため、絶対的な執着を取り入れることができない。

身体を持たないことから身体による制圧をうけない。電脳の世界

理解するという行為は結構残酷。完全な理解に達したとき、世界と心は和解に向かうのか?理解による救済と残酷は表裏一体。

建築物を世界設定の機軸に据える利点:建築環境はそれ自体が人工物であるが故、すでに淘汰された様式が存在し、作品の着地点を容易に見出すこともできる。歴史建築と映画の設定には必須かつ有効。

魚:生を意識しつつ虚の世界に没落する  鳥:理想的生を超えた世界 犬:従属を強いられる人間的世界

REM KOOLHAAS

REM KOOLHAAS


¥、E、$をあわせるとYESになる。アドルノのように、グランド・ホテルの深淵にこもって否定のための否定ばかりやっていても仕方がない。グローバル資本主義の波に乗ってサーフィンしてしまえというのがレムのモチヴェーション。

可能な限り全てのものに関心をもち、全てのものに正面から向き合う。それこそがポストクリティカルな時代に唯一可能なモラル-善悪を超えたモラルだ。ここに、浅田はレムの批判的距離を放棄するシニシズム(既存の価値、理念に対し懐疑的で冷笑な態度をとる傾向)をみる。己の価値観のみを唯一のものとして物事を進めるレムを言い表す面白いword

ジェネリック・シティ(無印都市):ベンヤミンのアウラの喪失と現代建築の非差異性の間に同じ匂いをかぎつける。

エピセンター(プラダ):コマーシャルを大々的にすることを目的とせず、文化的・オープンスペースの場としての役割が第一義である。

「私は空間という言葉を使わない。脚本にそれを言い換える。空間は建築を神秘化し正当化してしまう。みんな空間を神聖かつ秘密のものとして扱い、他の人たちを締め出してしまう。」:超越的に空間を用いると、その神秘性のために“自己の判断”が出来なくなってしまう…。

「空間」以外のものを作り出すことで、逆に「空間」が現れてくる。ヴォイドの概念。
ジェネリックを多数作ることで、それらの間にアイデンティティが現れてくる。これは、意識的に空間を作り出す近代建築の手法に逆行している。

「柱があり、その柱に支えられている何かがあり、それらの全体関係において建築が成立している。私はここで、柱を傾ける。何ゆえ?その問い自体を引き出し、建築への眼差しを復権させんがためにだ。」美的なものではなく、コンセプチュアルなものをレムは好む。






ルネ・マグリット:言葉とイメージ=コールハース:形とその動き

針と球:地表面の影響を限りなく小さくし、最大限のプレゼンスを得ようとすると、建築は針状になる。一方、最小限の表面積で最大限の容積を得ようとすると、建築は球状になる。

レムは美学的な面からではなく、社会的な面から建築を考えていた。
mass」としての巨大建築物と「consideration」としての小さな建築物。

ヴォイド:書という「地」に対し、プログラムという「図」の穴を自由に開ける操作。

エスカレーターとエレベーター:前者は階層を無効化し、連続性・流動性を生み出す。後者はある地点とある地点の機械的接合を可能にし、断続性・転換性を生み出す。

ジャンクスペース:近代建築の副産物として我々が生み出し続けてきた建築物の総体。パッチワーク空間。ここでは、構造も装飾も、公も私も、高級なものも低俗なものも無秩序に混在する。正に東京そのもの。一時性・更新可能性・非歴史性。

並列都市:無秩序にも思える都市計画を新と旧が織り成すパフォーマンスととらえる。共産主義と超資本主義、富と貧、農民と都市住民、無秩序と抑制など、相反する概念が一つの都市社会の中で並列している。

リプレイスケープ:本物の自然を建築内に配置するより、商品化された自然としての模倣品を配置したほうがメンテナンス、施工においてはるかに効率がよい。これは、植物だけに限らず音響、空気などトータルな環境要素を含意する。

建築と都市:前者は人間の制御によるもの。後者は、前者が集積して失敗作に見えるもの。