2010年11月3日水曜日

ジンメルコレクション

ジンメルコレクション

ある価値やある感情が一つの面で高まっている時に、他の面でも高まっていると連想する。

ただ、芸術作品だけが世界全体が一つの全体であるような意味で一つの全体でありえている。作品の額縁によって物の多様な分散性というものから確固と分かたれている。

男性:現時点だけで自己解決可能となる完全な自由を獲得する。浮気性。

世間はどうでもいいような盗みにはこだわるが、それと同じで通りに立つ哀れな娼婦達に対しては道徳的な憤怒の全てを投げつける。しかし、娼婦が高級であるほどその矛先は緩む。

貨幣と女性の交換性:女性の地位が低いほど、個人であることが少ないほど、商品と値段の不均衡がないということになる。

世間は義務が難しければ難しいほどその義務を厳格に課してくる。

社会全体の展開の最終的な理想といえるのは、身体的=官能の発現と精神的=性格の発現がうまく調和し、両者が時間的にずれることがないという状態。しかし、文化の増大によって両者は引き裂かれてしまい、難しい状況が生じた。

ルネッサンス期の女性::様々な教養を積み、外で活躍するきかいが多くあった。この時期のイタリア女性のファッションは突飛なファッションが流行した記録はない。他の領域で個性化が上手く達成できていた。


取っ手:容器に権利要求をする外界と、そのような外界にかまうことなく自身のために権利要求する芸術形式の、二つの要素が埋まっている。両者のバランスが大切。
これを実社会へと応用する。個人もひとつのサークルの有機的な完結性の内部での役割を保持することを生の芸術から要求されている。しかし、個人は同時により大きな統一体の目的にも仕え、その奉仕を通じて、より狭いサークルを周囲のサークルの中に組み込むのを助ける。
一方の全体性が他方の全体性を、引き裂かれるということなしに、捉えるための手がかりとなること、これこそ、人間の世界観、世界構成における最も素晴らしいことだ。

扉:壁は沈黙しているが扉は語っている。人間が自分で自分に境界を設定しているということ。しかし、その境界をふたたび廃棄し、その外側に立つことができるという自由を確保しながらこれを行っているということ。これこそ、人間の深層にとって本質的なことだ。

橋はどちらの方向にも、常に開かれている。扉は片一方にしか開かれていない。窓は内部から外部に対する一方方向にしか開かれていない。意図を持って両者を行き来することができるのは扉においてだけである。


ヴェネチア:フィレンツェの城のような外観を備え、権力の厳粛な、華麗な展開、それら全てが自身と自己責任を背負う人格の表現である。これに対し、ヴェネチアは気取った遊び、包み隠すヴェールといった自分自身の美の法則にしか従わない。
ヴェネチアではあらゆるものが美しさの全てを表層に集め、自分自身は引きこもって後ろのほうで表層の美を見守っている。


額縁:自己自身のための世界となり、自分にとって外的なもの全てに対して自分自身を閉ざす。芸術における境界とは、外に向かっては無関心と自己防衛を、内に向かっては統一的結束を同時に実行する無条件の隔絶を意味している。

大きな画においては、他の者への視線がそれほど大きく関わってこないためさっぱりした額縁でよい。しかし、小さな画においては、周りのものとの隔絶を図るため、仰々しい額縁が好まれる。

芸術作品とその環境のあいだを分離しつつ相互に媒介していくという課題を、額縁が視覚的なものの中で解決していこうとすれば、額縁が前景に出るべきか背景に退くべきか、エネルギーは放出すべきかせき止めるべきかといったことについて、細心の注意を払って考察していく必要がある。  
これは芸術に限ることではない。個人と社会の相互摩擦にいおいても(内が個人、外が社会)同様に考えられよう。

実生活では絶えず要求されている外的なものから内的なものへの心理学的推論などは、芸術家には不要である。芸術の守備範囲を最終的な意図は内的なものにではなく外的なものにあるからだ。


芸術作品の内部に宿る魂とは、実のところ芸術的なカテゴリーと要求にのみ由来し、かつ呼応する特殊な理念的構築物であること、このことが認識された時はじめて、自然主義はいわば潜伏先の最後の隠れ家から追放されるように思える。魂が魂を生み出す。

大理石:白さと光沢によって石の重量感は軽減され、精神化される。身体としての単なる空間がそこには備わっている。柔軟で形と力にもっとも柔軟な素材であること。しかし、実態は非常に重く扱いにくい。人間の力と自然の力との大きな闘争を経て、彫刻の美が生まれるのだ。

いったん悟性と計算と均等化が生に浸透してしまうと、美的欲求は再びその反対物へと逃げ込み、非合理的なものとその外見的形式であるアシンメトリーなものを探し始める。均一化は組織においても(カール五世など)重要視される。より小さな抵抗で予想可能な仕方で、外からの刺戟に対し対応することが出来る。

私達の中に類が生き延びている限り、私達に快感を与える事柄、それこそが私達にとっての美しいものなのかもしれない。その対象の現実的な有用性は、長い時間にわたる歴史的発展と遺伝によって、濾過されてしまっている。しかし、まだまだ発展の余地はあろう。問題はどのような新たな美を我々が感得するのかにかかっている。

高揚した自我は世界からあまりに多くのものを要求するのに対して、社会主義は自我の生活圏を制限することによって貸し借りのバランスを回復し、自我の破産を食い止める。

私達の内なる最高のものが、更なる影響力を発揮しようとしても、適切な取っ掛かりが見つけられないことはよくある。悪は単なる意実としてそこにあるに過ぎず、積極的にそれに立ち向かうのは悪自身ではなく、我々のほうだ。

和解と救済。和解を求めると、新たな問題が浮かび上がってくることは良くある。それは、永遠のいたちごっこのようなものだ。

一度に高い入場料(答え)を払うよりも、中に入ってそのつど小さな犠牲を払うことによって克服される障害を絶えず与え続けるほうが、娯楽の達成はより徹底したものになる。

万博と大見本市:前者は世界各国から物品が集まるが、後者は多数の街から物品がああ詰まる。国内ならば、ほどよい心地よさを生み出し、相対的な対比や強調が作り出される。


よそ者の客観性:身近の人に話せないようなことも、旅人には気楽に話すことが出来るということ。ユダヤ人の特権…国なき客観人。

今日の私達は以前よりずっと深く商品供給者に依存しているが、供給者個々人について言うと、いつでも思い通りに取り替えることが出来る。これが、必然的に強い個人主義を生み出す。全の思考ではなく、個の思考で人生を賄う。

あるものの価値が値段によって決められていく。物が持つ特殊でもっとも個性的な魅力を感じ取る繊細な感受性はひたすら退化していくほかない。

ジョジョ 

ジョジョ

マンガ:空想の幅は自由。街の概観のみならず、生活している人間を放つことも、歴史を与えることも可能。

荒木は「動き」の通:体の動き(形態)はいうまでもなく、心の動きも明察している。

コマの順を追っていくマンガの読み:正統であるようで邪道。人間の視覚構造に反している。ストーリーの奴隷になりやすい。絵を味わうのではなく、ストーリを味わうようであれば書物と変わらなくなってしまう。
マンガの中身…味覚:分析や解釈はとかく理や思い込みが過剰になるので、料理的に見ると、中身の「味」を悪くしてしまう恐れがある。しかし、同時に新たな発見もある。単においしいという観想だけでなく、このスパイスが甘みをうまく抑えて、結果としてこのような上品な味を可能なら占めているといったような解釈を得ることができる。

拷問:肉体的暴力のほかに精神的暴力が加わる。「手」を「考」えて「問」いただす。

奇にして美、奇は鬼、異形の美で醜と背中合わせである。表裏一体であること。

言葉の「しぐさ」:言葉を発する対象・環境・年齢によりさまざまに「しぐさ」は変貌する。

荒木の描くマンガ:運命から逃避し妄想に逃げ込むのではなく、また運命を単に内面化するのでもなく、運命の固有性を内面化した先で、かつそれを多様な潜在性へと開きなおすこと。

プッチ神父:運命への人間の無力さを絶対零度まで推し進めた。神の意思ばかりでなく、俗らいの出来事すら変えられないことへの葛藤がプッチを悩ませた。
プッチはニーチェのような「全き生命」の覚悟を望んでいた。運命を知ることで、それでも生きていかなければならない。「大切なのは何をなすか」ということすらも解っている世界で我々は「何をなすべき」「何を目的に生きるべき」なのであろうか?

ディオ:「どんな人だろうとひとには適材適所がある。それが生きるということである。スタンドにも同様のことが当てはまる。強い・弱いはない。」人の弱さは一般論では語れない。各人に固有の無能や弱さがある。しかも、それは必ず他者との偶然的で抗争的な出会い=引力を通して露になる。

正しさ/間違いが見分けがたい以上、人は「愛する気持ちゆえに愛するものを傷つける」「愛とか正義を願う気持ちを持つあまり間違った道に迷い込む(はたしてそれが間違っているのか判断しかねるが…)という逆説から逃れられない。

真の無償の自己犠牲:自分でも犠牲にしたという実感すらなく、相手も何かを贈与されたという事実に気付かないような、そういう自己犠牲をさすはずであろう。偉大さではなく、そよ風のように当たり前の犠牲。(レヴィナス参照)
他人は許せるが、自分という「敵」はどうしても許せない。自己嫌悪へのスパイラル。

戦いにおける対話/友愛の芽生え:自己犠牲を真に貫くと、殺意という限界点が必ず通過される。敵に最大の敬意を払い、愛すること。最終的には、敵に自らを殺させてあげること。無力状態の者を殺させることで、敵の精神を新たな次元へと引き上げる。(バガボンドの精神をみるとよい。)

一般的に語られてきた「奇跡」:神秘主義や神の特権的恩寵ではなく、卑近で小さな偶然の連鎖からつむがれているという事実。
この世界では、一つの「賭け」の成功/失敗、勝利/敗北の意味も、卑近な出会い=引力の中で無限的連鎖に決定され、また決定されなおしている。

スタンドという二重表象:一人の人間が二重形象化される。意識的に操作可能である点で、「夢・希望」の具象化された「ドッペルゲンガー」のようなものか。(影の歴史と対比)

マニエリスム漫画(技巧的漫画)とジョジョ
古典マンガ:驕慢(きょうまん)な権力志向や放逸な自我や脆弱な自我のことに過ぎなかった。どれも自己の内部でしか発生収束しないものであった。しかし、マニエリスム漫画は違う。外部へと「悪」を求めるようになっていく。当時の社会情勢などを鑑みるに、晩年の手塚治虫が善悪二元論を越えた悪の表象に力を向けていったのは必然であったのかもしれない。
古典漫画において悪は大前提として措定され、そこから反射的に全なるものの言動も決定されていた。しかるにマニエリスム漫画では悪が議論と沈黙嗜好と積極的実践の対象となり、善のほうは対照的に議論の余地の少ない大前提として祭り上げられている。
ジョジョでは?悪の描写に関して、思想の背景・人間の未来性・歴史的反省をもとに精密に記載されている。

16世紀の絵はほとんど、一目見ただけでは何がその主題なのかわからない。それは、統一と明晰さを第一に重視した古典期の作画法の逆をマニエリストが行っているからである。彼らは画面の中のある部分から他の部分へと隠された盲目を張り巡らせる。異なる時間や同一人物が二人いたりする。もはや、絵を客観的な世界の再現とは捉えてはいけない。「絵を読む」という行為はマニエリスムの作品に合致しよう。

荒木:好きな画家の一人にゴーギャンをあげる。画面をエリアで区切り色を塗っている(クロワソニズム)が、画面全体に遠近法的な奥行きあるところが凄いと述べている。
古典的なミケランジェロから強い影響を受けた一方で、バーネットニューマンなどの記号定名作品を好む。記号性の高い作品にしかない表現方法もあるため、新鮮かつ勉強になるのであろう。

フレームの不確定性:映画において、フレームは一定・不変であろう。しかし、漫画においては不定・可変である。枠組みの可変性は大きな題目となる…後々述べる。

ジョジョ:自らに様々なものを与えてくれる父親や師や仲間に対して同一化している
ディオ:自らと同様に奪いつくされた母親に対して同一化している。

第五部のジョルノ:ディオの血を受け継ぎながら、ジョジョ家の血へと進入していく。与えられたものを身につけ、与えられていないもの(奪われたもの)を渇望する「現代人」の表象か?この「現代人」の歩むべき道を荒木は作品の中で示していく。
自らの運命に気付くと、仲間とともに歩み、仲間の離反や死・苦痛を遺産として受け継ぐことを選んだ。ディオのような他者の拒絶ではなく、他者に向かって自らが開かれていることを選び、他者によって自分自身が変わることを恐れない心を持った。

視線から見る漫画:読者の視線は、常に紙面の真正面から注がれるわけではない。 読者の視線は、平面的にではなく立体的に運動する。 実際の目元からではなく仮想的な視点から注がれる「仮想アングル」が存在する。

コルネリス・ファン・デル・ヘーストの収集室:仮想的な支店から左→右へと差し込むような視線が生まれてくる。頭を動かして、左から覗き見たいという衝動に駆られる。
人間は実際に首を傾けずとも、仮想的に首を傾けたような感覚を頭の中で作り出せる。
(唯脳論参照)
また、紙面全体には「アングル」が現れる。(一枚作品を多数並べた場合はこれにあたらない。)。ページのアングルと、次のコマのフレームの形、フレーム内の内容の流れで読者のテンポは様変わりする。



原則1 焦点移動:鑑賞者のアングルが傾く。消失点やコントラスト、指差しポーズなどによっても焦点は移動することとなる。
原則2 アングルの保存:視線を移動するに当たり、余計な情報を取り込まないよう、跳躍的に次の段へと移動する。
原則3 z軸回転のねじれ:コマ内の構図が斜めになっている場合、アングルは傾く(焦点移動に近い)というよりは「ねじれる」。吸い込まれるような見方を想像すればよい。
原則4 正面補正:注視している面に対して垂直に近づくように傾く。傾斜の強いアングルのコマの次に持ってくることでニュートラルに戻す役目もある。
原則5 変形ゴマ:台形ゴマは奥行きのある面と認識されやすい。
原則6 サイトラインの一致:見詰め合う人物同士の視線をつなぐライン。キャラクターを通しての視点か、キャラクターと同位置からの視点か。

荒木割りは独特。様々な技法を駆使して描く。天才。

シミュレーショニズム

シミュレーショニズム

ジェフクーンズ:百貨店で配布されている無償の贈物を美術市場に取り込んで、いつのまにか数万ドルで流通させている⇒現代美術の無根拠なメカニズムを露呈させた。

これ以上、生産しなくても、消費しきれないくらいの様式が過去に眠っている。

リチャードプリンス:どうでもいい広告の切れ端や雑誌の表紙の一部を、モアレなど気にせず大量に複写していく。これほどまでにメディアが発達してしまうと、どんな風景も場面も、それが殺人だろうと戦争だろうと、予めどこかで見たことがあるありきたりのイメージにしか見えなくなる。写真の撮る行為は終わってしまった。写真にやるべきことがあるとすれば、撮り終わった膨大なイメージの集積に、カメラという媒介を使って揺さぶりをかけ、その都度異なったイメージとして再生させることである。
⇒日本では森山大道などの作品(ブレやボケを積極的に作品にとりこむ)

引用:作家の内面的なコンテクストや表現の動機を膨らませるためになされることが多い。
サンプリング:一人の人間にひとりの個性、一人の作家に一つの作風という考え方を、ばらばらに切り崩して表現の外部へと向けて解き放ってしまう。

歴史上すでに評価の確定しているパフォーマンスを再現することで、その伝説の虚構性(ぜんぜん偉大さも何も感じない)をあらわにする。偽物だからつまらないのではなく、そもそも失われた本物自体がさしておもしろくない。

美術館の外では一万円で、中では一億円。その違いは何だろうか?芸術として認められているかいないかという「信用」だけが、後者の付加価値を約束している。

シンディシャーマン:<ヴォーグ>という作品の中で、過去のイメージファイルから様々なスタイルをサンプリングしてきて、それを自分自身の身体を媒介に編集していく。その編集行為の中で、自分の多様性・複数栄・分裂製といったものを再発見していく。

DJのターンテーブル:記録を再編集し、本来は出会うはずのないもの同士を繋げ、今ある歴史軸とは別の流れを生み出していくための編集装置であろう。
イメージの編集においては、カメラがターンテーブルの役目を担う。



明和電気:下町の中小企業のシミュレーション。制服を着て、表情は無く、ひたすら新製品の開発のために日夜努力する社長をモチーフに採っている。日本における「芸能」と「芸術」のあいまいさをついている。

現代は情報がかつてないほど肥大し、飽和した時代である。「新しさの神話」や自分の個性、自分だけにしかできることをしなければならないという強迫観念や、自我の呪縛から解放されて、いろいろな異質なものとのコミュニケーションのなかに、作家性とか内面性といわれてきたものを解放していくことができるようになった。

ハイパー現実:シミュラクルと化したイリュージョン。真/偽の間隙に連続的な真でも偽でもない領域を持つ多値論理によって揺さぶられる。

新たなる自然を様々にオペレートすることによって傍観者的に戯れて見せる。
シミュレーショニズムとは高度に発達した、というよりも、その極限において機能している資本主義が、強度の反物質的補強において成立させたマッハ主義のバリエーションである。

観念の貧困が甚だしい日本。いまだに一綴りの観念への土俗に甘んじている。
が、近年は面白い作家も増えてきた。

森村泰昌:一個の人間が美術史の様々な局面に扮することができることを肉体的に証明することにより、美術史の見かけの多様性が、そこに偏在するある単一性によってこそ保護されていることを暴露する。
グレッグ&グッドマン:「美術史」を写真による書き割りと化すことによって、その前に立つ生身の人間とのギャップを拡大し、誰も美術史の中には立ち入ることができ無いことを証明する。

サンプリングは対象の本質ではなく、本質と関係ない部分、むしろ不必要とされている部分に深い関心を抱いている。 明示されていない部分にこそ、可能性が秘められている。
この、要約できない部分は、流通しない。つまり、それは交換価値を有さない、絶対価値のみ有するものである。

キノコはオスとメスとの間にそれがオスかメスかが確率論的にしか決定できない「無限」をはらんでいる。


われわれは夢を素晴らしいと表現することはできない。それはただ、魅惑的にたち現れるだけである。なぜなら、夢にあってはわれわれの主観が夢という客観に対して対象的に機能していないからだ。

作品への言葉によるメッセージの付与:身勝手な解釈を許さない。そこでは見るだけではなく、「読む」ことが必要になってくる。

シミュラクルの氾濫:幻影が実在の現実に先行してしまい、われわれのモノの見方そのものを逆規定してしまうような自体。

写真というメディアの特性
写真家にとっては、現実というオリジナルにたいするコピーとしての写真という認識論的な構図、美術家にとっては、写真の現像が無限に反復可能であるという存在論的な事実に目がいった。
複写製と複製性の違い⇒前者は異なるネガによる複数性、後者は同一ネガによる複数性。

偶然描かれた絵画は存在しない。しかし、偶然撮られた写真は存在する。写真においては自己と写真装置と世界という幸福な三角関係は、その起源においてすでに単純なかたちで構成されえないものである。

絵画へのマジックの一筆と写真へのマジックの一筆:前者は絵そのものを己の手・思考によって描いていることから「付け足し」に抵抗感が無いが、後者ではおおきな抵抗が現れる。

写真の上から絵画を描く:個々で写真は二重の死を強要される。絵画の厚みによって死んでいること。そして、装置を作動させたその瞬間に写真は生まれると同時に死んでいるということ。

ポップ:資本主義体制下におけるマス・プロダクト。そこに誕生した美学は、テクノロジーの崇高という種類のものである。その欲望の対象は少なくとも「より速く、より強く、よち大きく」あろうとすることによって現実を異化しようとする意志を残していた。

高度資本主義社会においては、商品の使用価値そのものよりも、それに付随するイメージが商品価値の優劣を頻繁に決定する。しかし、そのイメージの差異も、認知不可能な差異なき差異の捏造にまで到達している(イメージによる過剰すぎる差異化)

インタラクティブアート:鑑賞者に作品を鑑賞する過程を指示・強要する⇒作品の制作者とその鑑賞者は究めて交渉的であり、その共役数としてあらわれる作品の「意味」は、表現者と鑑賞者とのあいだにあって究めて確率論的に決定されていく。

ポンピドゥセンター「大地の魔術展」:アメリカ・ドイツ・イタリア(奇しくも戦勝国と敗戦国!)によって主導されてきた現代美術の各種の「イズム」を無化するかのごとくに、第3世界からの作品と、欧米のコンテンポラリーアーティストの作品を同一空間に並列することによって、現代美術の価値ヒエラルキーを脱色し、そこにフランス性の復権を期した。

今日のフランスが、主に北アフリカからの文化亡命者(サッカー選手などで顕著)を最大限受け入れるその受容の寛容において新ヨーロッパ秩序における枢軸「フランス」たりえようとしている。

サルトル

サルトル

現象学
フッサール:意識の主観的な特徴と客観的な特徴をさぐる。
精神状態の背後には多くの仮定がある。この仮定を取り除くことを目的とするのが「現象学的中断」「エポケー」である。

今ここの経験がすべての意識の現象学的零度である。フッサールは純粋な意識の現象学的研究から「純粋自我」「絶対自己」を導きだそうと試みる。

自我の超越:非反省的意識→乗るべき電車を意識する自分 反省的意識→電車を逃したおろかな自分を意識する。後者は二段階的に自分を意識している。前者においては思考の内に自己は存在しない…とサルトルは言うが、思考という行為そのものが自己につながるとデカルトは言いたかったのであろう。
サルトルは「自我の本質的な役割は、意識に対してまさにその自発性を隠蔽する事である」

キルケゴールによる「原罪」 アダムが自分の自由に対峙した際に感じる恐怖ないしは不安。人間の誰もが自由に対し恐怖・不安を覚えるのは間違いない。

嘔吐:人間的経験―世界―存在  主人公ロカンタン
実存を扱うために人間的に創造された世界がある。その世界が存在するために「言語、理論、伝統習慣」が存在する。
直接的に実在と向き合うことはない。人間的な制度を媒介にしてかかわっている。
存在の偶然性:絶対的に不条理なもの、それが「存在」 言葉や伝統などは剥ぎ取ることが可能であるが、存在は消し去ることができない。エポケーにいたると、存在の偶然性(人間の世界での事物の認識ツール)があらわになる。この偶然性は「余計」に付加されたものである。
ライプニッツ:偶然的な存在のすべての鎖の最後→必然的な存在(存在しないことができない存在、神)でおわっている。  あるいは  鎖が無限であり、ある存在状態から次の存在状態へ、また次の存在状態へと連鎖を繰り返す。無意味の遅延。あらゆるものの不条理。
神に至ることができない我々は後者に陥るのであろう。

サルトルの実存主義:実存の不条理性を引き受ける力と勇気を人間の意識に与え、意味のない世界に意味を想像する能力を開示しようと試みる。


対自存在は無によって自分の過去から隔てられている。過去には事実性があるが、今の私がすることの「根源」ではありえない。「要因」ではありうるが。
意味の源泉には故人の側の決定にある。いつでも変わりになる意味解釈はありうるが、何らかの要因で「過去の事実」に縛られた選択を我々はなす傾向にある。過去の事実を持ち出してくる理由は、「未来に対する不安」がある。

では、なぜ絶えず不安を感じていないのか?
選択を行うということと選択を行わないとうことの違い:自分で対象(選択)に対して意味を与えているのか与えていないのかによる。根源的な価値体系を存在させているのは私自身である。

価値
価値のリアリティ:価値を持つから選ばれたというよりは、選ばれたという事実からそのリアリティを持つ。価値は我々が自由に選ぶことができるという条件下で生まれてくる。

自己欺瞞:不安や恐怖からの逃避。自身に対する嘘
役割は根源的な自由を制限したり、隠したりする。我々は役割により他人や自分自身をいっそう容易に対象化してしまう。役割は自己欺瞞への避けがたい誘惑である。
対自存在は常に定義不能で不完全で、自己抹消の可能性を持つ。

他人
他者を見つめることで私は彼を対象化し、彼を私の対称に変えてしまっているにもかかわらず、彼は私にとっての脅威となる。 他者の自由が私の自由を拘束するため。他者を見るということは常に「他者によって見られる可能性があることを理解すること」である。
神とは他者の概念を極限まで推し進めたものに過ぎない。

責任
自由は重荷だ。我々の選択の一つ一つは抵抗、困惑、障害を生み出す。
悲劇的な瞬間においても我々には逃げ出す、自殺するという選択がある。しかし、これをしないという選択を選ぶことは、自ら悲劇を起こす主観者と同じ立場にいることを意味する。

自己とは全体である:根源的投企はすべての行動において現れる(意識の度合いはあろうが)
我々の行動や選択を通じて各瞬間的に的に再創造されていく。自分の顔はまさに歩んできた道そのものである。

フロイトが言うような無意識的な事実などは存在しない。すべては意識の元にある。要はすべて我々の選択により「今の人格を備えた」存在がある。

「我々の責任は大きい、それが人類全体を巻き込むからである。」
これは、我々の選択の連続により故人が形成されていくが、その選択の判断基準は基本的に「世界基準」に依存しているからである。
カントはいう「あなたの行動が他の誰にとってもモデルとなるように行動すべきだ」

全体化:一見ばらばらの行動と出来事を総合的な全体へと収瞼することを意味する。ひとつの歴史のある時点をとれば、それこそが歴史の総和であり、全体を現している。そのある時点は「今現在」の解釈をえて積み上げられているからである。ロシア革命の直前とロシア崩壊直後の社会主義にたいする見方の違いみたいなもの。

個々の実践のうちには可能性と自由がある。それは制度的な形態を生み出し、実践的惰性態と呼ぶものになる。これは未来の実践を支持する歴史的な重みであり、実践の可能性を奪うことになる。

2010年10月18日月曜日

シュルレアリスムとは何か

シュルレアリスムとは何か

シュルレアリスムは客観(objectif)のほうを表に出した思想。
日常の約束事と付き合っているうちに、なにかふわっと、みたことのない、未知の驚きを呼び起こす現実が現れたとき、それを「超現実」と呼ぶべきではなかろうか。

現実と「超現実」は繋がっている。度合いの違いがそこにはあるだけ。
超現実は、我々が現実だと思い込まされているような、少なくとも世間一般で信じられていないような法則とか制約のシステムに左右されない、なにか裸のオブジェ(客体、対象)の関係みたいなものをあらわにしてくる。

モノを書くということはある程度automaticなことである。スピードが上がってくると、何を書こうかということを考えずに書く状態がたいていのヒトに訪れるもので、決して特殊なことではない。

「モノを考えるということは、実は私が考えているのではなくて、私が考えさせられている。・誰かが私を考えているということなんだ」とランボーは述べている。

書くスピードをもっともっと速くするとどうなるか。霊媒(肉体)が何かに取り付かれて自分の知らない、考えていないことまで書いてしまう。

幼年時代には、偶然にたよらず自分自身を効果的に所有するということのために、全てが一致協力していた。(幼年時代の思い出からは、何かに支配されていると思わせない感じが浮かべられよう。) 世間が作る「正しい道筋」なるものに支配されない心を持っていた。

エルンストのコラージュ:貼ること。本来は関係の無い別のイメージ(既成の図版などの切り貼り)同士をノリで張り合わせる。
近代人は、絵画・美術作品は人間主体が創造するもので、人間というものは創造する力を持っているという一種の神話を信じていたが、それはウソではないかとエルンストは疑う。創造するのではなく、創造されるのだ。何かに触れない限り、創造は生まれない。真っ白な大部屋で首から上だけの視界しか見えない状況で人間が育ったならば、その人はおよそ何も創造することは無かろう。

デペイズマン(depaysement):本来の環境から別のところへ移すこと、置き換えること、本来あるべき場所に無いものを出会わせて異和を生じさせること。
メルヘンとは何か

メルヘンから一番遠いものは童話であろう。
童話(子供のための文学)は近代の代物で、ヨーロッパでは18世紀以後のものである。17世紀まで、「子供」の概念は無かった。「小さな大人」としての子供があっただけである。当然、彼らが日常に触れる体験・読書なども大人のそれと変わりなかった。

神話・伝説などの起源:夜の時間、閑散期の暇な時に集団の中で話をするという習慣ができた。自然発生的な文学。Culture=農耕=文化は興味深い連関である。

世界中で共通の似通った話があるのは、ある時期に人類は共通する何かを体験していたので、それが自然発生的にいろんなところで「お話」の形で残されたのではなかろうか。

おとぎ話は時代と場所が非限定であるような文学形式で、主人公の名前も太郎や花子などありふれたものであったり、非限定であったりする。逆に、神話では時代・場所・名前が限定的である。

幻想とは:自然の法則しか知らないものが超自然的な出来事に出会って感じるためらいのことである。By トドロフ


ユートピアとは何か

西洋におけるユートピアとは、この世に存在しない、理想的な場所あるいは国という意味であり、楽園とか桃源郷の概念とは異なる。西洋では、「厳戒な法律と整然とした都市」を併せ持つような像を思い浮かべる。

ユートピアの空間では時間がない。少なくとも歴史(史実として残すべき価値がある事実)がない。なぜかというと、理想の社会の中では葛藤は起こらないからだ。もし歴史を描くとすれば、それは「単調な経過報告」のようなものになるであろう。

サドのユートピア:ユートピアを完璧に構築した場合、そこは地獄に近くなる。
フーリエのユートピア:全てが善であるようなユートピア。時間ごとに人間の本性・本能・情念の組み合わせが変化していく単調ではない世界。
両者ともユートピアであるに違いない。問題は、ユートピアの構築の仕方である。

チェゲバラ プレイバック

チェゲバラ

ゲバラは共産主義的なモラルを欠いた社会主義経済には興味がない。自分達の戦いは貧困との闘いに留まるものではなく、疎外との戦いでもある。労働は集団的で精神的な動機で組織されるべきだと考えた。

「新しい社会」:競争原理ではない。友愛に満ちた態度を生み出す意識の変化が人間の内部で起こるはずだとゲバラは主張する。

国軍の解体:われわれは、ある国が先駆けて国軍を解体するというのは暴論であると考える。なぜなら、国軍解体により、平和・安全が脅かされるからだ。しかし、そもそも、国軍という武力集団を持つこと自体が外の者に対する敵対意識の表れにほかならない。

ゲバラは流血の闘争を好む暴力至上主義の立場から武装ゲリラを志したわけではない。

重層的な民族構造を有するラテンアメリカに生まれたゲバラは、複数の文化/複数の社会のあり方に豊かさを認めるよりも、マルクス主義理論の全体性を武器に、総体を単一の色に塗りこめる方向への傾斜が著しいのかもしれない。

コンゴで革命を起こそうとしたが、自身がキューバ革命を成功に導いたと思っていた方策が通じなかった。他国の地形・民族文化を無視して、定式として適用したのがダメだった。

小さな国一つでは帝国主義の暴力に対抗できない。ゲバラは帝国主義に対する抵抗のための国際的な連帯・連携の仕方がどうあるべきかというところで、国際主義路線(国境を越えた解放運動により、国家意識を解体し、統一的な価値を共有する)を展開した。

左翼革命・革命思想には、定式化できることはない。その地域独自の歴史と現実に根ざしたものがある。

ケネディとカストロの関係は興味深い。

シモーヌ・ヴェーユ:干渉戦争と戦うロシア革命の戦士達の防衛戦争を称賛しながら、革命家はこの戦争のおかげで「帝政の将校達を幹部とする赤軍の庶民への圧力や、反革命派たちの政策よりも、いっそう厳しい官僚政治組織を築かなければならなかった。」


自分の目的はこれと決めてあるからといってそれを貫き通すのではなく、自分の意思に見合う別の可能性に直面した時には、それをあっという間に消化して自然の選択としてすすんでいくあり方が理想。

「テロリスト」と名づければ、数万人を殺す戦争が多くの人々の反対と批判を黙殺して進行している。日本もその一員だ。その一方、大国に最も虐められている小国が、周辺の最貧国に対する支援をひっそり行おうとしている。

キューバは、2016年までに革命軍の解体・軍備の廃止をおこなう。常備軍は姿を消すだろう。 各国が見習うべき態度をカストロは表明した。
人間が人間の敵であることを前提とする資本主義社会においてはもちろん、それを排したはずの社会主義においてさえ廃絶できなかった戦争の本質に鑑み、われわれは自らが築きつつある新しい社会モラルに即してこの方針を定めた。

パルガス=リョザ:ひとは属している立場によって、「社会主義」からうけとる者が違うと述べる。言論の自由が最も大事な知識人と、社会的秩序が平等を原則に打ち立てていると考える大衆。表現の自由を保障しながら、経済的な平等主義は貫けない。

メキシコのサパティスタ民族解放軍:兵士なく軍隊無く戦争のない未来を目指す反帝政集団。 彼らの理論とゲバラの理論は通じる者がある。

グレン・グールド

グレン グールド


演奏において大事なのは「音楽との接触」そのものであり、公開の場でそれを行うことではない。

芸術とは人の内なる燃焼を起こしてこそ意義が認められるのであって、芸術の目的はアドレナリンの瞬間的な分泌にあるのではなく、驚きと落ち着きの状態を、ゆっくりと一生涯をかけて構築していくことにある。個人がじっくりと考えながらそれぞれの神性を想像するという課題に目覚めつつある。瞬間的なものは壊れやすく、熟成したものは壊れにくい。

拍手禁止計画:聴衆が拍手なしの演奏会に満足し、今後も拍手なしの演奏会を受け入れ、新しいない症的な聴取を求める態度が演奏会メディアに定着していくかどうかを試した。

美的ナルシズム:感動は聞き手が自分の内面で反芻するものである。
しかし、演奏会にあっては伝えたいというコミュニケーションの欲求が美的ナルシズム探究の欲求を上回ってしまう。よって、浅はかな感動しかえられていない。

マクルーハンとの接触も面白い。電子メディアとその未来の可能性。

日常会話の「クリシェ」の洪水に触れても私達の言語感覚は鈍るどころか、むしろ研ぎ澄まされる。音楽も同じだ。・・・とグールドは考える。 無意識的にも触れ合いを多数持つことで新たな構想の可能性が生み出される。そういった意味で、演奏会はどうか?その演奏会が「互いの期待」に基づいているならば、新たな構想の可能性は小さくなろう。

芸術文学は日常会話に属し、音楽芸術は編成された驚きに属する。

音楽の環境化―生活への浸透―を果たし、それを「背景」に創作という「前景」もなされる。前景と背景の関係とそこに参加する人々に注目して新時代の芸術行為のあり方を展望しているとこに特色がある。

詰まるところ、グールドが電子メディア時代の音楽界の「諸相」を詳述した果てに強調したのは、「聴き手」の問題であり、その意識の変化・向上である。
これは音楽に限らない。全ての分野において聴き手の問題は存在する


新種の聞き手によって、聴衆の全てが芸術家となり生活と芸術の区別が消えるのであって、芸術行為は専門の職業としての意義を失う。 演奏家の無必要性。

恐らく我々は、自身が想像している以上に遥かに多くの情報を取り入れる能力を持っていると思われる。

聴き手は絶えず変化・交替していく前景・背景双方の音楽的プロセスを自在に体験しながら、その一瞬一瞬に響くすべてを無意識のうちにも「感受」していく。「よい聴き手」とは、聴取の能動性と受動性、意識と無意識、前景と背景の区別を超えたところで聴覚を発揮する、いわばプロセスの有能な体験者である。

グールドは音楽の演奏家であるよりも、編集を行いパースベクティヴを操る音響の演出家として創造的営為を深めていた。

「あるレコードに対して寄せる最大の賛辞とは、制作過程や制作者のしるし、即ち痕跡が完成品に全く残っていないと認めることだ」

美的なコミュニケーションにフィードバックが伴うと想像し、それが双方向的で円環的な関係を成立させるように感じるのは、送り出した芸術作品が無事に受け手に伝達され、その芸術的価値が適切に理解・共有されているはずだという送り手側の願望や信念が、送り手側の意識の内面で短絡し、自己肯定の擬似的なフィードバックを生じしめているからではないか。

ゴルドベルク変奏曲:情緒の移ろい、集中力の傾注と緩和、身体的な持久力と疲労感といったあらゆる生理的要素が絡み合い、線的に継起し、音楽に反映されている。

鍵盤と指の触感:即時性と透明感を兼ね備えた音を評価すると同時に、「触感」に沈溺することに警戒を示した。

グールドのバッハ観:禁欲主義への共感。享楽を求める周囲に迎合せず、禁欲的に自分の信念を貫く態度という意味でバッハを尊敬していた。

グールドが好んだのは、両極的な二項対立にある「劇的な構造」の音楽ではなく、「劇的」要素の欠如した単一原理に基づく一元的な音楽であった。


グールドの演奏の多くには、聴き手の官能に直接訴える、循環的で反復的な、うねるような律動間が備わっている。 ジャズに通じる何かがそこに感じ取れ得る。 勿論、グールドのそれは内省的反省の下に生み出されている。

全てのフレーズがスタッカートであるとレガートであるとに関わらず、直線的ではなくはっきりと曲線を描き、単なる表現意欲や気分が変わったという次元ではなく、実際に演奏を組み立てていく個々の音型やリズム型といった基本的なイディオムの実際的な扱い方、つまり演奏スタイルそのものに変化が生じている。

「道に遊ぶ」:ただ指を早く動かすことの喜びから、いっそう入念なアーティキュレーションや微弱な強弱を「精神の拡張」としての指先で探り、確かめ、楽しむ傾向が高まったように思われる。
ここで注意するのは、あくまでも内省的な思考の中で生まれた感性を対象としている。

共通のパルスの永続:曲を録音するに際し、一曲が終了すると、次の曲を弾く時、全曲の終わりをプレイバックさせ、そこから録音を始める。こうすることで、完成した全曲から共通のパルスを抽出できる。

北としてのカナダ:比較的米国との文化交流や情報交流がある国境付近の暮らしろ、その背後にある―厳しい自然・畏怖の念・敬遠するべき存在―「批評家の国」カナダのアイデンティティをグールドは持ち出して、「内面の活動」の重要性を訴えたかった。

グールドにとって「想像力」とは、ネガティブなものでもポジティブな営為でもない。この両者を捉えて創造性を発揮する人間の主体的な精神活動の一部であるということが読み取れる。
「皆さんは、システムやドグマという、ポジティブな営為のための訓練を受けてきましたが、想像力に出来るのは、それを前景としさらに莫大な可能性というネガティブなものを広漠たる背景として、これらの間の緩衝地帯として役立つことです。この広漠たる背景とは絶えず検証するべきものであり、あらゆる創造的発想をもたらす源泉として敬意を示すことを忘れてはいけない場所なのです。」