2010年10月18日月曜日

シュルレアリスムとは何か

シュルレアリスムとは何か

シュルレアリスムは客観(objectif)のほうを表に出した思想。
日常の約束事と付き合っているうちに、なにかふわっと、みたことのない、未知の驚きを呼び起こす現実が現れたとき、それを「超現実」と呼ぶべきではなかろうか。

現実と「超現実」は繋がっている。度合いの違いがそこにはあるだけ。
超現実は、我々が現実だと思い込まされているような、少なくとも世間一般で信じられていないような法則とか制約のシステムに左右されない、なにか裸のオブジェ(客体、対象)の関係みたいなものをあらわにしてくる。

モノを書くということはある程度automaticなことである。スピードが上がってくると、何を書こうかということを考えずに書く状態がたいていのヒトに訪れるもので、決して特殊なことではない。

「モノを考えるということは、実は私が考えているのではなくて、私が考えさせられている。・誰かが私を考えているということなんだ」とランボーは述べている。

書くスピードをもっともっと速くするとどうなるか。霊媒(肉体)が何かに取り付かれて自分の知らない、考えていないことまで書いてしまう。

幼年時代には、偶然にたよらず自分自身を効果的に所有するということのために、全てが一致協力していた。(幼年時代の思い出からは、何かに支配されていると思わせない感じが浮かべられよう。) 世間が作る「正しい道筋」なるものに支配されない心を持っていた。

エルンストのコラージュ:貼ること。本来は関係の無い別のイメージ(既成の図版などの切り貼り)同士をノリで張り合わせる。
近代人は、絵画・美術作品は人間主体が創造するもので、人間というものは創造する力を持っているという一種の神話を信じていたが、それはウソではないかとエルンストは疑う。創造するのではなく、創造されるのだ。何かに触れない限り、創造は生まれない。真っ白な大部屋で首から上だけの視界しか見えない状況で人間が育ったならば、その人はおよそ何も創造することは無かろう。

デペイズマン(depaysement):本来の環境から別のところへ移すこと、置き換えること、本来あるべき場所に無いものを出会わせて異和を生じさせること。
メルヘンとは何か

メルヘンから一番遠いものは童話であろう。
童話(子供のための文学)は近代の代物で、ヨーロッパでは18世紀以後のものである。17世紀まで、「子供」の概念は無かった。「小さな大人」としての子供があっただけである。当然、彼らが日常に触れる体験・読書なども大人のそれと変わりなかった。

神話・伝説などの起源:夜の時間、閑散期の暇な時に集団の中で話をするという習慣ができた。自然発生的な文学。Culture=農耕=文化は興味深い連関である。

世界中で共通の似通った話があるのは、ある時期に人類は共通する何かを体験していたので、それが自然発生的にいろんなところで「お話」の形で残されたのではなかろうか。

おとぎ話は時代と場所が非限定であるような文学形式で、主人公の名前も太郎や花子などありふれたものであったり、非限定であったりする。逆に、神話では時代・場所・名前が限定的である。

幻想とは:自然の法則しか知らないものが超自然的な出来事に出会って感じるためらいのことである。By トドロフ


ユートピアとは何か

西洋におけるユートピアとは、この世に存在しない、理想的な場所あるいは国という意味であり、楽園とか桃源郷の概念とは異なる。西洋では、「厳戒な法律と整然とした都市」を併せ持つような像を思い浮かべる。

ユートピアの空間では時間がない。少なくとも歴史(史実として残すべき価値がある事実)がない。なぜかというと、理想の社会の中では葛藤は起こらないからだ。もし歴史を描くとすれば、それは「単調な経過報告」のようなものになるであろう。

サドのユートピア:ユートピアを完璧に構築した場合、そこは地獄に近くなる。
フーリエのユートピア:全てが善であるようなユートピア。時間ごとに人間の本性・本能・情念の組み合わせが変化していく単調ではない世界。
両者ともユートピアであるに違いない。問題は、ユートピアの構築の仕方である。

チェゲバラ プレイバック

チェゲバラ

ゲバラは共産主義的なモラルを欠いた社会主義経済には興味がない。自分達の戦いは貧困との闘いに留まるものではなく、疎外との戦いでもある。労働は集団的で精神的な動機で組織されるべきだと考えた。

「新しい社会」:競争原理ではない。友愛に満ちた態度を生み出す意識の変化が人間の内部で起こるはずだとゲバラは主張する。

国軍の解体:われわれは、ある国が先駆けて国軍を解体するというのは暴論であると考える。なぜなら、国軍解体により、平和・安全が脅かされるからだ。しかし、そもそも、国軍という武力集団を持つこと自体が外の者に対する敵対意識の表れにほかならない。

ゲバラは流血の闘争を好む暴力至上主義の立場から武装ゲリラを志したわけではない。

重層的な民族構造を有するラテンアメリカに生まれたゲバラは、複数の文化/複数の社会のあり方に豊かさを認めるよりも、マルクス主義理論の全体性を武器に、総体を単一の色に塗りこめる方向への傾斜が著しいのかもしれない。

コンゴで革命を起こそうとしたが、自身がキューバ革命を成功に導いたと思っていた方策が通じなかった。他国の地形・民族文化を無視して、定式として適用したのがダメだった。

小さな国一つでは帝国主義の暴力に対抗できない。ゲバラは帝国主義に対する抵抗のための国際的な連帯・連携の仕方がどうあるべきかというところで、国際主義路線(国境を越えた解放運動により、国家意識を解体し、統一的な価値を共有する)を展開した。

左翼革命・革命思想には、定式化できることはない。その地域独自の歴史と現実に根ざしたものがある。

ケネディとカストロの関係は興味深い。

シモーヌ・ヴェーユ:干渉戦争と戦うロシア革命の戦士達の防衛戦争を称賛しながら、革命家はこの戦争のおかげで「帝政の将校達を幹部とする赤軍の庶民への圧力や、反革命派たちの政策よりも、いっそう厳しい官僚政治組織を築かなければならなかった。」


自分の目的はこれと決めてあるからといってそれを貫き通すのではなく、自分の意思に見合う別の可能性に直面した時には、それをあっという間に消化して自然の選択としてすすんでいくあり方が理想。

「テロリスト」と名づければ、数万人を殺す戦争が多くの人々の反対と批判を黙殺して進行している。日本もその一員だ。その一方、大国に最も虐められている小国が、周辺の最貧国に対する支援をひっそり行おうとしている。

キューバは、2016年までに革命軍の解体・軍備の廃止をおこなう。常備軍は姿を消すだろう。 各国が見習うべき態度をカストロは表明した。
人間が人間の敵であることを前提とする資本主義社会においてはもちろん、それを排したはずの社会主義においてさえ廃絶できなかった戦争の本質に鑑み、われわれは自らが築きつつある新しい社会モラルに即してこの方針を定めた。

パルガス=リョザ:ひとは属している立場によって、「社会主義」からうけとる者が違うと述べる。言論の自由が最も大事な知識人と、社会的秩序が平等を原則に打ち立てていると考える大衆。表現の自由を保障しながら、経済的な平等主義は貫けない。

メキシコのサパティスタ民族解放軍:兵士なく軍隊無く戦争のない未来を目指す反帝政集団。 彼らの理論とゲバラの理論は通じる者がある。

グレン・グールド

グレン グールド


演奏において大事なのは「音楽との接触」そのものであり、公開の場でそれを行うことではない。

芸術とは人の内なる燃焼を起こしてこそ意義が認められるのであって、芸術の目的はアドレナリンの瞬間的な分泌にあるのではなく、驚きと落ち着きの状態を、ゆっくりと一生涯をかけて構築していくことにある。個人がじっくりと考えながらそれぞれの神性を想像するという課題に目覚めつつある。瞬間的なものは壊れやすく、熟成したものは壊れにくい。

拍手禁止計画:聴衆が拍手なしの演奏会に満足し、今後も拍手なしの演奏会を受け入れ、新しいない症的な聴取を求める態度が演奏会メディアに定着していくかどうかを試した。

美的ナルシズム:感動は聞き手が自分の内面で反芻するものである。
しかし、演奏会にあっては伝えたいというコミュニケーションの欲求が美的ナルシズム探究の欲求を上回ってしまう。よって、浅はかな感動しかえられていない。

マクルーハンとの接触も面白い。電子メディアとその未来の可能性。

日常会話の「クリシェ」の洪水に触れても私達の言語感覚は鈍るどころか、むしろ研ぎ澄まされる。音楽も同じだ。・・・とグールドは考える。 無意識的にも触れ合いを多数持つことで新たな構想の可能性が生み出される。そういった意味で、演奏会はどうか?その演奏会が「互いの期待」に基づいているならば、新たな構想の可能性は小さくなろう。

芸術文学は日常会話に属し、音楽芸術は編成された驚きに属する。

音楽の環境化―生活への浸透―を果たし、それを「背景」に創作という「前景」もなされる。前景と背景の関係とそこに参加する人々に注目して新時代の芸術行為のあり方を展望しているとこに特色がある。

詰まるところ、グールドが電子メディア時代の音楽界の「諸相」を詳述した果てに強調したのは、「聴き手」の問題であり、その意識の変化・向上である。
これは音楽に限らない。全ての分野において聴き手の問題は存在する


新種の聞き手によって、聴衆の全てが芸術家となり生活と芸術の区別が消えるのであって、芸術行為は専門の職業としての意義を失う。 演奏家の無必要性。

恐らく我々は、自身が想像している以上に遥かに多くの情報を取り入れる能力を持っていると思われる。

聴き手は絶えず変化・交替していく前景・背景双方の音楽的プロセスを自在に体験しながら、その一瞬一瞬に響くすべてを無意識のうちにも「感受」していく。「よい聴き手」とは、聴取の能動性と受動性、意識と無意識、前景と背景の区別を超えたところで聴覚を発揮する、いわばプロセスの有能な体験者である。

グールドは音楽の演奏家であるよりも、編集を行いパースベクティヴを操る音響の演出家として創造的営為を深めていた。

「あるレコードに対して寄せる最大の賛辞とは、制作過程や制作者のしるし、即ち痕跡が完成品に全く残っていないと認めることだ」

美的なコミュニケーションにフィードバックが伴うと想像し、それが双方向的で円環的な関係を成立させるように感じるのは、送り出した芸術作品が無事に受け手に伝達され、その芸術的価値が適切に理解・共有されているはずだという送り手側の願望や信念が、送り手側の意識の内面で短絡し、自己肯定の擬似的なフィードバックを生じしめているからではないか。

ゴルドベルク変奏曲:情緒の移ろい、集中力の傾注と緩和、身体的な持久力と疲労感といったあらゆる生理的要素が絡み合い、線的に継起し、音楽に反映されている。

鍵盤と指の触感:即時性と透明感を兼ね備えた音を評価すると同時に、「触感」に沈溺することに警戒を示した。

グールドのバッハ観:禁欲主義への共感。享楽を求める周囲に迎合せず、禁欲的に自分の信念を貫く態度という意味でバッハを尊敬していた。

グールドが好んだのは、両極的な二項対立にある「劇的な構造」の音楽ではなく、「劇的」要素の欠如した単一原理に基づく一元的な音楽であった。


グールドの演奏の多くには、聴き手の官能に直接訴える、循環的で反復的な、うねるような律動間が備わっている。 ジャズに通じる何かがそこに感じ取れ得る。 勿論、グールドのそれは内省的反省の下に生み出されている。

全てのフレーズがスタッカートであるとレガートであるとに関わらず、直線的ではなくはっきりと曲線を描き、単なる表現意欲や気分が変わったという次元ではなく、実際に演奏を組み立てていく個々の音型やリズム型といった基本的なイディオムの実際的な扱い方、つまり演奏スタイルそのものに変化が生じている。

「道に遊ぶ」:ただ指を早く動かすことの喜びから、いっそう入念なアーティキュレーションや微弱な強弱を「精神の拡張」としての指先で探り、確かめ、楽しむ傾向が高まったように思われる。
ここで注意するのは、あくまでも内省的な思考の中で生まれた感性を対象としている。

共通のパルスの永続:曲を録音するに際し、一曲が終了すると、次の曲を弾く時、全曲の終わりをプレイバックさせ、そこから録音を始める。こうすることで、完成した全曲から共通のパルスを抽出できる。

北としてのカナダ:比較的米国との文化交流や情報交流がある国境付近の暮らしろ、その背後にある―厳しい自然・畏怖の念・敬遠するべき存在―「批評家の国」カナダのアイデンティティをグールドは持ち出して、「内面の活動」の重要性を訴えたかった。

グールドにとって「想像力」とは、ネガティブなものでもポジティブな営為でもない。この両者を捉えて創造性を発揮する人間の主体的な精神活動の一部であるということが読み取れる。
「皆さんは、システムやドグマという、ポジティブな営為のための訓練を受けてきましたが、想像力に出来るのは、それを前景としさらに莫大な可能性というネガティブなものを広漠たる背景として、これらの間の緩衝地帯として役立つことです。この広漠たる背景とは絶えず検証するべきものであり、あらゆる創造的発想をもたらす源泉として敬意を示すことを忘れてはいけない場所なのです。」

グリーン革命

グリーン革命

イノベーションとインスピレーション、国家の富と威信の確保、莫大な利益の追求が組み合わさるとき、最も大きな力が生まれる。

無能が一番:主体的に行動せず、周りの考えに従っていれば万事うまくいくという風潮。これがまかり通ったため、移民問題の改革、社会保障制度、エネルギー問題に対する抜本的な対策が大幅に遅れた。

フランス:国家プロジェクトとして原子力発電に莫大な投資を行い、使用済み燃料の再利用などの技術を生み出した。

カーネギー財団ロスコフ:グリーンとは電力を生み出す単なる新方式ではなく、国力を生み出す新方式

現在の世界の最も憂慮すべき潮流は人口過密化(人口増加)である。テロはその次だ。

温室効果:地球を住みやすい環境にしている。もしこれがなければ、現在の地球は15度ほど低い状態にあったはずである。

アフルエンザ:金持ち病。貪欲に多くを求めるために、過大な負担、負債、不安、消耗を生じさせる。アメリカンドリームを追求したためにかかる伝染病。症状はストレス、過度の労働、負債。およそ、人間の知る範囲で最も強力な伝染性をもつ疾病の一つである。

中国とインド:かつての欧米よりもより早く知識重視型の製造へと移行している。しかし、無数の人が依然としてアメリカ人のような暮らしをしているため、気候変動はさらに加速する恐れがある。

イスラム諸国から原油を買い取ることで、アメリカは見と敵の軍隊の両方に資金を提供している。需要を最大限にし、供給を最小限にし、その差を埋めるために、憎き敵から原油を買い取るという馬鹿げたことを行っている。これは間接的に、テロへの加担をも意味している。

国民のエネルギーや想像力や企業家精神を引き出さなくても、地面に穴を掘るだけで政府が歳入を増やすことが出来る国では、自由は狭められ、教育は疎かになり、人間の発展が阻害される。バーレーンは例外。マッキンゼーに依頼して、労働を輸入しなくてすむように、国民の生産性をあげて雇用に応じられるようにした。

石油資源が豊富な産油国では、原油価格と自由化の度合いが逆の動きをしている。原油価格の上昇は、政府の透明性、言論の自由、司法の独立が蝕まれることになる。

オランダ病:天然資源が発見→外貨が流入→自国の通貨価値が下落→外国製品を購入→国産企業の倒産。
資源の災禍:天然資源への依存→天然資源の権利争い→政治、教育事項がゆがむ。

地面を掘れば金になる時、人間はイノベーションや起業家精神のDNAを発達させないものだ。

気候変動を否定している人々、なかなか認めようとしない人間によって、気候の議論が疎外されている流れを逆転させ、行動に踏み切るのには、気候変動を起こしている一員といて、まず初めに「提唱した自分が自然に対して謝る」ということを行わなければいけない。

問題のより多くの面を知るにつれ、我々は全体像を捕らえやすくなる。一極集中の知識では、現在の気候変動に対する有効な対策は考案されえない。

旱魃と洪水:地表温度の上昇→水蒸気の発生により地表が乾く→水蒸気は何処に溜まるか→山沿いに沿って豪雨を引き起こす→洪水へと繋がる。

グローバリゼーションによる六度目の大量絶滅の時期へと入った。この大量絶滅は気候変動によってもたらされるであろう。

あらゆる問題はエネルギー不足と結びつく。アフリカの健康の問題は医師不足と医薬品の不足と-医療機器を動かし、医薬品を保存するためのエネルギー不足である。インド農村部の失業はスキル不足と投資不足-工場を動かすのに必要なエネルギー不足である。バングラディッシュの農業の弱点は、種、肥料、土地の不足と-農機のエネルギー不足である。

グリーンは単なる流行語でもクリエィティブな宣伝文句でもなく、育、建、デザイン、製造、働、暮…全てのありようでなければならない。

失敗を恐れないガレージ発明の潮流を掻き立てるような政策が必要。国・世界レベルで奨励しないことには、なかなか起動しないのが現状。

とうもろこし燃料が世界の食料事情に齎したもの→世界中の貧困層への食料の供給を断つ結果に至った。  政策により何処にどのような皺寄せが行くのかをしっかりと考える必要がある。

小さなイノベーションがやがて大きなイノベーションへと繋がることを忘れてはいけない。既に知っていることから多くのことを学ぶのは、最短の道で大きなイノベーションへと至ることに繋がる。

ハーバード大学マイケルJサンデル:①世話する気持ち「自然界に対する責任」②信託統治「未来の世代への責任」この二つの精神があって、自然保護の倫理が成り立つ。

政府の政策、規制、税制優遇がなければ、エネルギー市場は拡大しないし、イノベーションは起こらない。勿論、これを実行するにはそれなりの利害が発生する。

環境コンサルタントのロブ・ワトソン:我々は氷山を回避しようとしているのではない。素手の氷山にぶつかったということを認識しなければならない。

GEのCEOジェフリー・イメルト:医療テクノロジーは八世代か九世代進んだ。この背景には政府と医療市場が価格、誘因、競争を生み出し、イノベーションの流れを絶えず推し進めていたからである。これに比して、エネルギーのイノベーションは一世代分子か進んでいない。

急な原油価格の高騰は、代替エネルギー革命を発生させる引き金になるはずである。頭のいい産油国の人間はこれに気付いている。

真のグリーン革命をやるのに必要なイノベーションを煽るには、政府監督機関と企業の経営・技術陣との交流を大々的に行う必要がある。

時に、既存の設備を全て革新するようなことも大切である。一部をいじっても大きな効能は得られない。

日本のエネルギー効率は世界トップ。しかし、更なる躍進を遂げなければならない…そして、世界へこの技術を売り出す必要がある。

先に述べた自然保護の倫理は、何のためにグリーンであるのかを問う時に非常に有効な倫理となる。人間の存在・地球・未来の地球を今一度考えてみる必要があろう。
政府、地域社会、企業と話をするにあたり、問題に応じその中身を替える必要がある。政府においては経済について語る。地域社会においては福利について語る。企業においては利益について語る。NGOにおいては環境問題について語る…地域や人々が異なれば、方舟に乗せる要素も変わってくる。

グリーンプログラムなるものを策定し、より高効率な設備や施設の設置に際し、雇用を生み出すことで若者の労働FIELDを確保する。若者にしっかり働かせれば、地域は安定するものである。

中国に関し、我々は負のイメージを持っている。しかし、国家プロジェクトでは相当にグリーンエネルギーに力を入れている。国の政策に対する反発は、自身の利益に目がくらんだ官僚や地方政権から発生している。
中国政府は、上からのグリーン法を拡充する一方で、ジャーナリスト等から、地方政権や官僚の不正情報に対し、開放的な政策を取る方向へと移行しつつあり、下からの変革をやり易くする開放的政策を進めている。

既存の政治家達には、電力・ガス・石炭といったエネルギー配給会社との関係が強いため、なかなか有効な政策が提案されず、また議会を通りにくい情勢となっている。これは日本においても同じであろう…。

なにをいうかではなく、なにをするか:気候変動に関する警告・分析のレポートは多数なされてきた。しかし、実際の行動レポートは非常に少ない。行動まで移せないのが現状。国民全体の意識改革が必要である。やはり、国策レベルで統制を取らないとことは始まらない。

NIMBY(not in my back yard):それはいいが、私の裏庭には勘弁願うよ。
BANANA(build absolutely nothing near anything):既存の建物の周辺には何も作らないでくれ。

地球の写真が載っている新聞をパズルにして子供に遊ばせた。→相当難しいはずだが3分ほどで完成させた。→裏面には人間の顔写真があった。→顔を組み合わせれば表面の地球が完成した。
人間をまとめれば地球をまとめられることの比喩。

カントの批判哲学

カントの批判哲学

○純粋理性批判
我々が経験により与えられるものを超え出でるとき、主観的な原理が付随する。
客体と主体の調和(合目的的な一致)ではなく、客体の主体への必然的従属。これにより、理性的存在は自らが新しい力能の持ち主であることを発見する。

認識の構成:単に多様なものを総合する作用だけではなく、表彰された多様なものを一対象に関係付ける作用もそなえる。何らかの対象は意識の統一的相関項である。ここで、理性と悟性に二分されてくる。

「悟性」:あらゆる現象がその形式の観点から見て従属している法則、しかも現象がそれに従属することで<感性的自然>の一般の形を成すことができる。
互生の判断は総合的統一に基づいて判断を下すのみしか行えない。

「理性は推論する」悟性概念があたえられると、理性は中間項を探す。無制約である点において、理性は神である。
純粋理性は悟性概念の使用における絶対的相対性だけを自らのために(これが無いと理性が存在しえなくなる)とっておき、カテゴリーにおいて思考される総合的統一を絶対的に無制約的なものにまで連れ出そうとする。
理性とは「すべてはまるで…であるかのように進むと述べる能力である」

共通感覚なしには認識は伝達されえなし、普遍性を主張することもできない。諸能力の一致(悟性概念の元に一致はうまれる)は様々なつりあいにおいて可能である。

悟性は本来現象にのみ適用されるべきであるが、その悟性概念を自体としてあるものに適用しようとすることもある。この、悟性の超越論的使用は、悟性が自らの諸々の限界への注意を怠っていることに由来する。これに対し、理性の超越的用は、悟性の枠からわれわれを飛び出させようとする。
悟性の超越論的使用:悟性がそれ自身(悟性的な概念)で、物一般を認識することを望むこと。
理性の超越的使用:理性が自身(理性を惹起している思考)で、ある規定された者を認識するのを望むこと。
理性においては最高次の関心の影を他の関心に投じられる。一種の錯覚製を我々に生みつける。これに対し、悟性は、想起された瞬間に終わる

     実践理性批判

欲求能力:自分自身の中に自分自身を規定するものを見出す場合に厳密な意味で意思と自立的意思と呼ばれる。この欲求に立法行為を行いうるのは理性である。

自由の概念:客観的かつ積極的。ある規定された実在性を与えている。

自然概念による立法:悟性が認識能力ないし理性の思弁的関心のなかで立法行為を行う。
自由概念による立法:理性が欲求能力において、自らの実践的関心において立法行為を行う。

悪の認識:ある格率が超感性的自然の実践的法則として考えられうるか?→理論的諸法則の形態との類比においてなしうる。理性は因果性それ自体を類比によって自然を形成するのに適した因果性として規定する。類比しうるのは理性であり、悟性ではない。

批判を必要とするもの、錯覚の根源となるものは実践的な純粋理性ではなく、経験的なもろもろの関心がそこに混入する不純性である。

思弁的理性の対峙・比較を想起することを告発するのが、純粋理性批判
立法行為を行わず(可能性にとどまる)、経験的に条件付けられるのをそのままにしておくこと(思弁を排する)を告発するのが実勢理性批判。

幸福は徳と結びつけ得ない二律背反性:道徳法則へといたる(徳)には立法行為が必要。しかし、実践理性において立法行為はなされえない。また、感性界の法則(幸福)は、よき意思の意図にはよっていない。

感性界と超感性界:前者が模型であり後者が原型である。前者は後者の理念から生ずる可能的結果を含んでいる。自由な原因は純粋に可想的である。超感性的自然は自由な存在が理性の法則の元で形成するものである。
自由な原因(超感性界):自らのうちにその結果を持つことはない。何も到来せず、何も始まりはしないから。自由な因果性(感性界):感性上の結果以外の結果をもたらさない。ゆえに、この自由な因果性は「諸現象に対しなんらかの因果性」を持つはずである。

しかし、感性的自然を獲得するには、超感性的な何かを表現ないし象徴する能力が必要になる。感性的自然は「前提」を必要とするためである。ここで構想力がでてくる。

構想力:悟性の一定の概念に依存することなく、自由に働くこともあれば、自らの限界を超え自らを制限無き者と感じて、理性の諸理念に自らを関係付けることもある。道徳性の認識、道徳的共通感覚は構想力のもたらす作用を伴っている。ニューロン的な役目。どことつながるのかは定められていない。

信仰は思弁的命題であるが、道徳法則から受け取る規定によって初めて実全的となる命題である。認識の対象としては、間接的・類比的にしか規定されないが、信仰の対象としては、実践的な規定と実在性を獲得することになる。

すべての関心は実践的なものであり、ただ実践的使用においてのみその完成を見る。

     判断力批判
美的な快は思弁的関心からも実践的関心からも独立しており、それ自身完全に無関心なものとして定義される。高次の形態の元での感情能力は立法行為を行わない。常に個別的であり、総合的統一性がそこには存在しない?
一定の概念が介入するごとに美は自由であることをやめ、同時に美的判断も純粋絵あることをやめる。ただ快のみが美的判断において普遍的で必然なものとして提示される。

美的判断にとどまる限り、理性の介入はない(美的判断は絶対的肯定の判断である)。
しかし、崇高においては理性の介入がある。構想力が限界に直面し、なんらかの感性的自然に帰する。感性界の広大さをまとめるのが理性である。理性を除するに当たり理性を必要とする。ここにおける構想力の力は理性の力なしには発揮されえない。はたして、これが美の感覚にも当てはめられるのか?
美の感覚の発生は客観的な射程を持った原則を要求してくる。美的なものへの関心は、美の感覚の構成要素ではなく、自然における美の算出にかかわるものである。
美の感覚の発生は悟性概念の中に含まれているものよりはるかに多くのことを考えさせる。悟性の無制限性により、構想力も解放されることになる。
あらゆる能力の無規定で超感性的な統一、自由な一致は魂において最も奥深いものである。

美的理念:自然の中にそれに対応する対象がない。われわれに与えられているのとは別の自然(考えさせる自然)についての直感を想像するからである。

カントの言う天才:自然美についてのもろもろの結論を芸術美へと拡大する規則を提供するのが天才。天才を持って、理性が喚起され、構想力を開放し、悟性を高次のものへと高めてきたのかもしれない。
判断力はいかなるときも何物にも還元できない独創的なもの。判断力は諸能力の一致において成立する。この一致は立法的役割を果たしうる。われわれの諸能力はその本姓において異なっているが、自由に自発的に一致をなすのであり、この一致により各々の能力がひとつの主の下で行使されうることになる。

悟性は、アプリオリに諸現象の内容・現実の経験の詳細、個別の法則を規定することはない。自然の可能性とその産出については意図に従って作用する原因を思い浮かべるほか判断を下すことはできない。


共通感覚:諸能力の一致。
我々は物自体ではなく、その現象に対し法則を当てはめそれを認識している。これが客体の主体への必然的従属である。
自分自身の中に自分を規定するものを見出す場合、自立的な意思となる。道徳的な共通感覚とは理性の主導のもと行われる理性と悟性の一致である。
美的判断における理性・悟性・構想力の一致。共通感覚の発生。この発生は自然と諸能力との偶然の一致により創出される。ここで生まれる共通感覚が、後に生まれる純粋理性・実践理性を生み出していく。

クールベ

クールベ

最後のロマン派

若かりし頃、クールベは昼はボヘミアン、夜はまったく別の市民生活を過ごしていた。夜は若い紳士として生活しながら、昼は生きたモデルのデッサンに没頭した。

「絵画が抽象に堕することを望まないならば、芸術を構成する一つの要素だけが支配してはならない。デッサン、色彩、構図、その他の様々な表現手段が調和して、初めて芸術は成り立つのだ。」

女装して仮面舞踏会へと赴くクールベ。

「私は自分の藝術も、他の流派の藝術も教えることは出来ない。なぜなら、私は芸術の授業というものを否定するからだ。芸術は全く個人的な事柄であり、どんな芸術家の作品も彼自身のインスピレーションと、伝統の研究によって育まれた能力を表現したものに他ならないからだ。」

クールベはアカデミーに背を向けた時、有力な教授達の指示を失った。彼の状況は、困難なものであった。クールベは名をなすためには戦略を持たなければいけないことを早くに悟った。  個展の開催、ネットワークの構築、マスコミの利用。現代にも通じる技をクールベはなしていた。

国の歴史画家への後援:ドラクロワの製作した天井画や壁画などのフレスコ作品は全て国の注文によって生まれたもの。

オルナンの埋葬(300×660):民衆の出来事を歴史画の地位にまで高めた作品。大作の歴史画をみてきたサロンの訪問者を驚かせた。

19世紀後半の絵画は、現実を再現するということに特別の重きを置くという限りで一貫して写実的になっていった。

クールベは1861年に「美は自然の中に存在し、きわめて多様な形で現実の中に姿を現している。それに気付くや、美は芸術のものとなる。いやむしろ美を認識できる芸術家のものとなる。」とのべている。彼にとって重要なのは外的な現実と芸術作品の内的な真実との和解であろう。
「芸術における想像力とは、ある実在する物の最も完璧な表現を見出す能力であり、物そのものを思い描いたり作り出したりすることではない。」
クールベの描写は知的自由をうたう。

「画家のアトリエ」():真ん中にクールベ、右側に友人、労働者、芸術愛好家、左側に通俗的な生活、貧困、富、搾取される者する者が描かれている。この作品で、クールベはきわめて恣意的に自分のアトリエに呼び入れた、社会と現実世界に対する自己の眼差しの自立性と主観性を強調する。

「自然によって与えられた美は芸術のどんな取り決めにも勝る。美は心理と同様、人々が生きている時代と、そしてこれを理解することの出来る個人と繋がっている。美の表現は芸術家が獲得した知覚の力と直接関係している。」

19世紀半ばまで、画家はほとんど例外なく、風景を人物の下位におくか。人物を風景に従属させた。一方が他方を補完するという関係は不動であった。クールベはここで、人物と風景に同等の意義を与えた初めての画家である。二つの要素が互いに競り合う危険性も同時に生まれた。

クールベと印象派の関係は複雑。外光画家にとって、風景は一連の形式上の問題と対決する機会を与えた。彼らは自然と向き合って感じたものを個性的に表現することにはあまり関心がなく、むしろ大気や季節や光の移ろいゆく現象を捉え、画面に定着させようとした。主題としての個性があまりないということであろう。これに比してクールベのそれは凄い。

カバネルのヴィーナス:伝統的写実
クールベのヴィーナス:女性と人類との関係性
マネのヴィーナス:確立された様式に対する揺さぶり

芸術と伝統の問題に対するクールベの見解
芸術的創造は本質的に気質と個性の事柄であり、これらは教えることが出来ない。主題の選択、解釈、そして絵画の製作は現代の世界と結びつき、過去を基準にしてはいけない。同時代の芸術家は真実を創造することに勤めるが、古典主義者は文学的な(聖書等)関連に縛り付けられている。

過去から滲み出したものであろうと、現在のものであろうとフランス人の魂を揺さぶることの出来る全ての要素を活用し、我々が本来あるところのものにする出来事や行動を取り上げる。上流社会でなく、国民生活への統合。

カラスについて

カラスについて

カラスはもともとは白かった:日の神アポロンの鶏。アポロンの使者として色々な情報を持ち帰っていたのだが、ある日、アポロンの愛人であるコロニスが別の男に心を奪われているということを発見し、そのことをアポロンに伝えた。コロニスを殺した後、アポロンは後悔の念かられ、彼女を手厚く葬るとともに。カラスのおしゃべりを憎み、その純白の色を真っ黒に変えてしまった。

人は生きることの厳しさを思うとき、なぜかカラスにこだわる。
自分自身の存在を追及する過程で、大自然を捨てて都市や人里といった人の生活圏すみかとするカラスの生き方に、生き物としての性(食料が豊富)を知り、底知れぬ孤独と寂しさを共感している。

軍神としてのヤタガラス 天照に仕えたカラス。

オタク学入門

オタク学入門

現在のオタク:他ジャンルのオタク知識・見識は知らなくて当たり前。自分の興味あるところだけしか深くない。

オタクは自分で好きなものは自分で決める。世間が自分のことをわからなくて当たり前。仲間はずれにされても気にならない。

岡田の言うオタク:世間とは別の価値観を持ち続けるには、知性と意志が必要。その両方を兼ね備えている人間がオタク。

エヴァの衝撃:それなりに歳を重ねたオタクは、そこに投影されている「哲学・社会学」的なものを見出す。わかいオタクは感動した作品のスタッフや前作などの関連性には興味ない。ただ、「同じ様な感動を与えてくれる他の作品」に走る。

今のオタクは第三世代。第一世代のような「人生を捨てて趣味人として生きる」覚悟もない。第二世代のような「熱くアイデンティティーを語る」本気さも持っていない。生まれながらの「金をむしられるだけの存在」である。

強いオタク:世間からの冷たい視線を跳ね返す知識と意思を持つためには、自分の好きなものだけを観ていてはダメという感覚があった。

わかりやすい映画はわかりやすい解釈を好む。その先に進めるか進めないかは、その人の意志に大きく依存する。⇒必然的に大衆は楽チンな方向にすすむ。

第二世代のオタクの弱点:アカデミズムで取り上げられた論考をそのまま鵜呑みにしてしまう。一種のエリート主義。

文化を維持するには、それなりのプライドとか誇り、良い意味での排他性が必要。今のオタク世代には快楽主義しかない。

オタク文化の成立には、「子供っぽい大人」「大人っぽい子供文化」が両立していることが必要。境界線が無いのが特徴。

無理して大人になるよりも楽して子供っぽく生きる。 日本の全世代・前回層が無意識に求めている生き方。 何かあると責任者に土下座させないと気がすまないマスコミ。

エッフェル塔

エッフェル塔

決して見る側には回らない純粋に機能的な組織体(カメラや眼)と自分自身は盲目でひたすら視線に振り回される見世物のようなものの2種類から世界はなる。(主観と客観)
エッフェル塔はこの二つを完備する塔である。

エッフェル塔は痕跡でも思い出でもない。自然化された人間性を「視覚」によってむさぼり、空間に人間性を戻すものである。構造を主観的客観的に見ることの重要性を示す。

慰安としてのエッフェル塔。抑圧を受けていない状況下で、人間は快楽と同時に快楽の代替物を求める。状況に応じて、都合のいいように事物を捕らえるということ。

橋の神話(両岸をつなぐもの)・・・絆の象徴。複数になると人間の象徴となる。橋の要素からなるエッフェル塔はまさに人間の象徴かもしれない。

エッフェル塔には装飾がない→機能的美。鉄組により風も通すため、何の影響も受けない。ただ、地殻(地球)にのみ影響を受けるだけである。他者が影響を受けることはあっても、エッフェル塔自身は何の影響も受けない。風にたいする征服は、自由な精神(独歩的な)の表れ。

パリ市街に見られる、円形屋根や石などの億町を完全に打破し、パリの象徴まで伸し上った初めての建築物。→権威に対する反抗を助長する機能を持つ。
エッフェル塔は鉄のレース(エロス)

目的なき建築物としてのエッフェル塔。意味をまったく持たないがゆえ、表徴となる。
言語=表徴=エッフェル塔

「単語」の意味とは、人間が独自に作り上げてきたもの。その本質は表徴であろう。「意味なき」言葉こそ、物の本質を表す(表徴)語となる。

ガラス戸(物質間の境界)・・・人間の動作の意味は通さない。事物にたいしては透明だが、意味にたいしては不透明。
バルトにとって断片は重要な構成方法。読み手に対して、書き手の観念を押し付けにくくすることが可能。独自に読み込んで、その意を吟味することの大切さを述べている。


身体の中でもっともエロティックなのは衣服の口があけているところ。隙間、境界にこそエロスは宿る。断固とした立場ではなく、両者の間に立つことこそエロティックを最も発揮できる。

バルトの表徴の帝国が教えてくれることは、他国の人間から見た「日本」はどのようにみえ、日本人との間に日本文化に対する理解に、どのような差異があるかを示している
日本文化の裏面を示してくれているともいえるかもしれない。

ウパニシャッド

ウパニシャッド

サンスクリット語でウパニシャッドは「近くに座す」を意味する。

讃歌・祭詞を収載する部分をサンヒター(本集)、その用法・意義を細説する散文部分をブラーフマナ(梵書)とよぶ。
森林中において伝授されるべき秘法・秘儀を載せた部分をアーラニヤカ(森林書)、宇宙万障の一元を宣示する哲学的な部分をウパニシャッド(奥義書)と呼ぶ。

ダクシャ(能力)はアイデティ(無限)より生じ、アイデティはダクシャより生ず。これはいささかブラフマナパティ(創造神)の位置を不明瞭にしている。

一元的…相対的有無の観念を超越した太初の状況を描いては、空界・天界無く、昼夜を別つ日月なく、死も無く不死も無く、暗黒に覆われた原水の内に、風なく自ら呼吸する絶対の唯一物を点出し、これに思考・創造の意欲・熱力の発動する次第をのべ、万有の展開をその陰陽ニ力の作用に帰している。

有は無より生ぜり…無は単純なる「虚無」の義ではなく、「名状すべからざるもの、隠微不可視なもの」を意味し、明瞭なる形相あるものにたいして用いられている。

ブラフマン()とアートマン():梵とは、神通力を意味し、宇宙の根本的創造力の名となった。我とは本来気息を意味し、生命の主体と目されては生気となり、内面的・本質的に解されて「本体・精髄・自我」を意味するに至った。

もし個人の生活機能が、一々自然の威力に相応しているならば、各個人はすなわち小宇宙であり、大宇宙の模型というべく各個人の本体は同一であり、大宇宙の本体と一致せねばならない。

梵は自ら見るものであり、自ら聞くものであり、自ら思考するものである。外に見者なく、外に聞者なく、外に思考者ない。

欲望亡き者の死:欲望無く、欲望を離れ、我のみを希求するものには、かれは梵となり梵に帰す。荒れ狂う五感を意の手綱によって支配できる者のみ最高位に達することができる。

梵・我は善行によって大をなさず、悪行によって小を減じない。梵・我は絶対善にして、清浄無垢である。
人は三徳(制御、布施、憐憫)を習得すべきである。これは最もだ。

ウパニシャッドは個人我と根本物質とを峻別し二元論を出張するサーンキヤ哲学(数論)、サーンキヤ哲学と基礎に精神統一の実習を強調するヨーガ哲学とも密接な関係にある。


多くのものは聞くだに難きもの、たとい聞くとも多くの人は知り得ざるもの、そを説く人は稀有なる。そを得る人は賢人なる。賢者に教えられて会得する人は稀有なる。