2010年10月18日月曜日

シュルレアリスムとは何か

シュルレアリスムとは何か

シュルレアリスムは客観(objectif)のほうを表に出した思想。
日常の約束事と付き合っているうちに、なにかふわっと、みたことのない、未知の驚きを呼び起こす現実が現れたとき、それを「超現実」と呼ぶべきではなかろうか。

現実と「超現実」は繋がっている。度合いの違いがそこにはあるだけ。
超現実は、我々が現実だと思い込まされているような、少なくとも世間一般で信じられていないような法則とか制約のシステムに左右されない、なにか裸のオブジェ(客体、対象)の関係みたいなものをあらわにしてくる。

モノを書くということはある程度automaticなことである。スピードが上がってくると、何を書こうかということを考えずに書く状態がたいていのヒトに訪れるもので、決して特殊なことではない。

「モノを考えるということは、実は私が考えているのではなくて、私が考えさせられている。・誰かが私を考えているということなんだ」とランボーは述べている。

書くスピードをもっともっと速くするとどうなるか。霊媒(肉体)が何かに取り付かれて自分の知らない、考えていないことまで書いてしまう。

幼年時代には、偶然にたよらず自分自身を効果的に所有するということのために、全てが一致協力していた。(幼年時代の思い出からは、何かに支配されていると思わせない感じが浮かべられよう。) 世間が作る「正しい道筋」なるものに支配されない心を持っていた。

エルンストのコラージュ:貼ること。本来は関係の無い別のイメージ(既成の図版などの切り貼り)同士をノリで張り合わせる。
近代人は、絵画・美術作品は人間主体が創造するもので、人間というものは創造する力を持っているという一種の神話を信じていたが、それはウソではないかとエルンストは疑う。創造するのではなく、創造されるのだ。何かに触れない限り、創造は生まれない。真っ白な大部屋で首から上だけの視界しか見えない状況で人間が育ったならば、その人はおよそ何も創造することは無かろう。

デペイズマン(depaysement):本来の環境から別のところへ移すこと、置き換えること、本来あるべき場所に無いものを出会わせて異和を生じさせること。
メルヘンとは何か

メルヘンから一番遠いものは童話であろう。
童話(子供のための文学)は近代の代物で、ヨーロッパでは18世紀以後のものである。17世紀まで、「子供」の概念は無かった。「小さな大人」としての子供があっただけである。当然、彼らが日常に触れる体験・読書なども大人のそれと変わりなかった。

神話・伝説などの起源:夜の時間、閑散期の暇な時に集団の中で話をするという習慣ができた。自然発生的な文学。Culture=農耕=文化は興味深い連関である。

世界中で共通の似通った話があるのは、ある時期に人類は共通する何かを体験していたので、それが自然発生的にいろんなところで「お話」の形で残されたのではなかろうか。

おとぎ話は時代と場所が非限定であるような文学形式で、主人公の名前も太郎や花子などありふれたものであったり、非限定であったりする。逆に、神話では時代・場所・名前が限定的である。

幻想とは:自然の法則しか知らないものが超自然的な出来事に出会って感じるためらいのことである。By トドロフ


ユートピアとは何か

西洋におけるユートピアとは、この世に存在しない、理想的な場所あるいは国という意味であり、楽園とか桃源郷の概念とは異なる。西洋では、「厳戒な法律と整然とした都市」を併せ持つような像を思い浮かべる。

ユートピアの空間では時間がない。少なくとも歴史(史実として残すべき価値がある事実)がない。なぜかというと、理想の社会の中では葛藤は起こらないからだ。もし歴史を描くとすれば、それは「単調な経過報告」のようなものになるであろう。

サドのユートピア:ユートピアを完璧に構築した場合、そこは地獄に近くなる。
フーリエのユートピア:全てが善であるようなユートピア。時間ごとに人間の本性・本能・情念の組み合わせが変化していく単調ではない世界。
両者ともユートピアであるに違いない。問題は、ユートピアの構築の仕方である。

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