2010年10月18日月曜日

クールベ

クールベ

最後のロマン派

若かりし頃、クールベは昼はボヘミアン、夜はまったく別の市民生活を過ごしていた。夜は若い紳士として生活しながら、昼は生きたモデルのデッサンに没頭した。

「絵画が抽象に堕することを望まないならば、芸術を構成する一つの要素だけが支配してはならない。デッサン、色彩、構図、その他の様々な表現手段が調和して、初めて芸術は成り立つのだ。」

女装して仮面舞踏会へと赴くクールベ。

「私は自分の藝術も、他の流派の藝術も教えることは出来ない。なぜなら、私は芸術の授業というものを否定するからだ。芸術は全く個人的な事柄であり、どんな芸術家の作品も彼自身のインスピレーションと、伝統の研究によって育まれた能力を表現したものに他ならないからだ。」

クールベはアカデミーに背を向けた時、有力な教授達の指示を失った。彼の状況は、困難なものであった。クールベは名をなすためには戦略を持たなければいけないことを早くに悟った。  個展の開催、ネットワークの構築、マスコミの利用。現代にも通じる技をクールベはなしていた。

国の歴史画家への後援:ドラクロワの製作した天井画や壁画などのフレスコ作品は全て国の注文によって生まれたもの。

オルナンの埋葬(300×660):民衆の出来事を歴史画の地位にまで高めた作品。大作の歴史画をみてきたサロンの訪問者を驚かせた。

19世紀後半の絵画は、現実を再現するということに特別の重きを置くという限りで一貫して写実的になっていった。

クールベは1861年に「美は自然の中に存在し、きわめて多様な形で現実の中に姿を現している。それに気付くや、美は芸術のものとなる。いやむしろ美を認識できる芸術家のものとなる。」とのべている。彼にとって重要なのは外的な現実と芸術作品の内的な真実との和解であろう。
「芸術における想像力とは、ある実在する物の最も完璧な表現を見出す能力であり、物そのものを思い描いたり作り出したりすることではない。」
クールベの描写は知的自由をうたう。

「画家のアトリエ」():真ん中にクールベ、右側に友人、労働者、芸術愛好家、左側に通俗的な生活、貧困、富、搾取される者する者が描かれている。この作品で、クールベはきわめて恣意的に自分のアトリエに呼び入れた、社会と現実世界に対する自己の眼差しの自立性と主観性を強調する。

「自然によって与えられた美は芸術のどんな取り決めにも勝る。美は心理と同様、人々が生きている時代と、そしてこれを理解することの出来る個人と繋がっている。美の表現は芸術家が獲得した知覚の力と直接関係している。」

19世紀半ばまで、画家はほとんど例外なく、風景を人物の下位におくか。人物を風景に従属させた。一方が他方を補完するという関係は不動であった。クールベはここで、人物と風景に同等の意義を与えた初めての画家である。二つの要素が互いに競り合う危険性も同時に生まれた。

クールベと印象派の関係は複雑。外光画家にとって、風景は一連の形式上の問題と対決する機会を与えた。彼らは自然と向き合って感じたものを個性的に表現することにはあまり関心がなく、むしろ大気や季節や光の移ろいゆく現象を捉え、画面に定着させようとした。主題としての個性があまりないということであろう。これに比してクールベのそれは凄い。

カバネルのヴィーナス:伝統的写実
クールベのヴィーナス:女性と人類との関係性
マネのヴィーナス:確立された様式に対する揺さぶり

芸術と伝統の問題に対するクールベの見解
芸術的創造は本質的に気質と個性の事柄であり、これらは教えることが出来ない。主題の選択、解釈、そして絵画の製作は現代の世界と結びつき、過去を基準にしてはいけない。同時代の芸術家は真実を創造することに勤めるが、古典主義者は文学的な(聖書等)関連に縛り付けられている。

過去から滲み出したものであろうと、現在のものであろうとフランス人の魂を揺さぶることの出来る全ての要素を活用し、我々が本来あるところのものにする出来事や行動を取り上げる。上流社会でなく、国民生活への統合。

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