2010年10月18日月曜日

エッフェル塔

エッフェル塔

決して見る側には回らない純粋に機能的な組織体(カメラや眼)と自分自身は盲目でひたすら視線に振り回される見世物のようなものの2種類から世界はなる。(主観と客観)
エッフェル塔はこの二つを完備する塔である。

エッフェル塔は痕跡でも思い出でもない。自然化された人間性を「視覚」によってむさぼり、空間に人間性を戻すものである。構造を主観的客観的に見ることの重要性を示す。

慰安としてのエッフェル塔。抑圧を受けていない状況下で、人間は快楽と同時に快楽の代替物を求める。状況に応じて、都合のいいように事物を捕らえるということ。

橋の神話(両岸をつなぐもの)・・・絆の象徴。複数になると人間の象徴となる。橋の要素からなるエッフェル塔はまさに人間の象徴かもしれない。

エッフェル塔には装飾がない→機能的美。鉄組により風も通すため、何の影響も受けない。ただ、地殻(地球)にのみ影響を受けるだけである。他者が影響を受けることはあっても、エッフェル塔自身は何の影響も受けない。風にたいする征服は、自由な精神(独歩的な)の表れ。

パリ市街に見られる、円形屋根や石などの億町を完全に打破し、パリの象徴まで伸し上った初めての建築物。→権威に対する反抗を助長する機能を持つ。
エッフェル塔は鉄のレース(エロス)

目的なき建築物としてのエッフェル塔。意味をまったく持たないがゆえ、表徴となる。
言語=表徴=エッフェル塔

「単語」の意味とは、人間が独自に作り上げてきたもの。その本質は表徴であろう。「意味なき」言葉こそ、物の本質を表す(表徴)語となる。

ガラス戸(物質間の境界)・・・人間の動作の意味は通さない。事物にたいしては透明だが、意味にたいしては不透明。
バルトにとって断片は重要な構成方法。読み手に対して、書き手の観念を押し付けにくくすることが可能。独自に読み込んで、その意を吟味することの大切さを述べている。


身体の中でもっともエロティックなのは衣服の口があけているところ。隙間、境界にこそエロスは宿る。断固とした立場ではなく、両者の間に立つことこそエロティックを最も発揮できる。

バルトの表徴の帝国が教えてくれることは、他国の人間から見た「日本」はどのようにみえ、日本人との間に日本文化に対する理解に、どのような差異があるかを示している
日本文化の裏面を示してくれているともいえるかもしれない。

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