2010年10月18日月曜日

ウパニシャッド

ウパニシャッド

サンスクリット語でウパニシャッドは「近くに座す」を意味する。

讃歌・祭詞を収載する部分をサンヒター(本集)、その用法・意義を細説する散文部分をブラーフマナ(梵書)とよぶ。
森林中において伝授されるべき秘法・秘儀を載せた部分をアーラニヤカ(森林書)、宇宙万障の一元を宣示する哲学的な部分をウパニシャッド(奥義書)と呼ぶ。

ダクシャ(能力)はアイデティ(無限)より生じ、アイデティはダクシャより生ず。これはいささかブラフマナパティ(創造神)の位置を不明瞭にしている。

一元的…相対的有無の観念を超越した太初の状況を描いては、空界・天界無く、昼夜を別つ日月なく、死も無く不死も無く、暗黒に覆われた原水の内に、風なく自ら呼吸する絶対の唯一物を点出し、これに思考・創造の意欲・熱力の発動する次第をのべ、万有の展開をその陰陽ニ力の作用に帰している。

有は無より生ぜり…無は単純なる「虚無」の義ではなく、「名状すべからざるもの、隠微不可視なもの」を意味し、明瞭なる形相あるものにたいして用いられている。

ブラフマン()とアートマン():梵とは、神通力を意味し、宇宙の根本的創造力の名となった。我とは本来気息を意味し、生命の主体と目されては生気となり、内面的・本質的に解されて「本体・精髄・自我」を意味するに至った。

もし個人の生活機能が、一々自然の威力に相応しているならば、各個人はすなわち小宇宙であり、大宇宙の模型というべく各個人の本体は同一であり、大宇宙の本体と一致せねばならない。

梵は自ら見るものであり、自ら聞くものであり、自ら思考するものである。外に見者なく、外に聞者なく、外に思考者ない。

欲望亡き者の死:欲望無く、欲望を離れ、我のみを希求するものには、かれは梵となり梵に帰す。荒れ狂う五感を意の手綱によって支配できる者のみ最高位に達することができる。

梵・我は善行によって大をなさず、悪行によって小を減じない。梵・我は絶対善にして、清浄無垢である。
人は三徳(制御、布施、憐憫)を習得すべきである。これは最もだ。

ウパニシャッドは個人我と根本物質とを峻別し二元論を出張するサーンキヤ哲学(数論)、サーンキヤ哲学と基礎に精神統一の実習を強調するヨーガ哲学とも密接な関係にある。


多くのものは聞くだに難きもの、たとい聞くとも多くの人は知り得ざるもの、そを説く人は稀有なる。そを得る人は賢人なる。賢者に教えられて会得する人は稀有なる。

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