2010年10月18日月曜日

カントの批判哲学

カントの批判哲学

○純粋理性批判
我々が経験により与えられるものを超え出でるとき、主観的な原理が付随する。
客体と主体の調和(合目的的な一致)ではなく、客体の主体への必然的従属。これにより、理性的存在は自らが新しい力能の持ち主であることを発見する。

認識の構成:単に多様なものを総合する作用だけではなく、表彰された多様なものを一対象に関係付ける作用もそなえる。何らかの対象は意識の統一的相関項である。ここで、理性と悟性に二分されてくる。

「悟性」:あらゆる現象がその形式の観点から見て従属している法則、しかも現象がそれに従属することで<感性的自然>の一般の形を成すことができる。
互生の判断は総合的統一に基づいて判断を下すのみしか行えない。

「理性は推論する」悟性概念があたえられると、理性は中間項を探す。無制約である点において、理性は神である。
純粋理性は悟性概念の使用における絶対的相対性だけを自らのために(これが無いと理性が存在しえなくなる)とっておき、カテゴリーにおいて思考される総合的統一を絶対的に無制約的なものにまで連れ出そうとする。
理性とは「すべてはまるで…であるかのように進むと述べる能力である」

共通感覚なしには認識は伝達されえなし、普遍性を主張することもできない。諸能力の一致(悟性概念の元に一致はうまれる)は様々なつりあいにおいて可能である。

悟性は本来現象にのみ適用されるべきであるが、その悟性概念を自体としてあるものに適用しようとすることもある。この、悟性の超越論的使用は、悟性が自らの諸々の限界への注意を怠っていることに由来する。これに対し、理性の超越的用は、悟性の枠からわれわれを飛び出させようとする。
悟性の超越論的使用:悟性がそれ自身(悟性的な概念)で、物一般を認識することを望むこと。
理性の超越的使用:理性が自身(理性を惹起している思考)で、ある規定された者を認識するのを望むこと。
理性においては最高次の関心の影を他の関心に投じられる。一種の錯覚製を我々に生みつける。これに対し、悟性は、想起された瞬間に終わる

     実践理性批判

欲求能力:自分自身の中に自分自身を規定するものを見出す場合に厳密な意味で意思と自立的意思と呼ばれる。この欲求に立法行為を行いうるのは理性である。

自由の概念:客観的かつ積極的。ある規定された実在性を与えている。

自然概念による立法:悟性が認識能力ないし理性の思弁的関心のなかで立法行為を行う。
自由概念による立法:理性が欲求能力において、自らの実践的関心において立法行為を行う。

悪の認識:ある格率が超感性的自然の実践的法則として考えられうるか?→理論的諸法則の形態との類比においてなしうる。理性は因果性それ自体を類比によって自然を形成するのに適した因果性として規定する。類比しうるのは理性であり、悟性ではない。

批判を必要とするもの、錯覚の根源となるものは実践的な純粋理性ではなく、経験的なもろもろの関心がそこに混入する不純性である。

思弁的理性の対峙・比較を想起することを告発するのが、純粋理性批判
立法行為を行わず(可能性にとどまる)、経験的に条件付けられるのをそのままにしておくこと(思弁を排する)を告発するのが実勢理性批判。

幸福は徳と結びつけ得ない二律背反性:道徳法則へといたる(徳)には立法行為が必要。しかし、実践理性において立法行為はなされえない。また、感性界の法則(幸福)は、よき意思の意図にはよっていない。

感性界と超感性界:前者が模型であり後者が原型である。前者は後者の理念から生ずる可能的結果を含んでいる。自由な原因は純粋に可想的である。超感性的自然は自由な存在が理性の法則の元で形成するものである。
自由な原因(超感性界):自らのうちにその結果を持つことはない。何も到来せず、何も始まりはしないから。自由な因果性(感性界):感性上の結果以外の結果をもたらさない。ゆえに、この自由な因果性は「諸現象に対しなんらかの因果性」を持つはずである。

しかし、感性的自然を獲得するには、超感性的な何かを表現ないし象徴する能力が必要になる。感性的自然は「前提」を必要とするためである。ここで構想力がでてくる。

構想力:悟性の一定の概念に依存することなく、自由に働くこともあれば、自らの限界を超え自らを制限無き者と感じて、理性の諸理念に自らを関係付けることもある。道徳性の認識、道徳的共通感覚は構想力のもたらす作用を伴っている。ニューロン的な役目。どことつながるのかは定められていない。

信仰は思弁的命題であるが、道徳法則から受け取る規定によって初めて実全的となる命題である。認識の対象としては、間接的・類比的にしか規定されないが、信仰の対象としては、実践的な規定と実在性を獲得することになる。

すべての関心は実践的なものであり、ただ実践的使用においてのみその完成を見る。

     判断力批判
美的な快は思弁的関心からも実践的関心からも独立しており、それ自身完全に無関心なものとして定義される。高次の形態の元での感情能力は立法行為を行わない。常に個別的であり、総合的統一性がそこには存在しない?
一定の概念が介入するごとに美は自由であることをやめ、同時に美的判断も純粋絵あることをやめる。ただ快のみが美的判断において普遍的で必然なものとして提示される。

美的判断にとどまる限り、理性の介入はない(美的判断は絶対的肯定の判断である)。
しかし、崇高においては理性の介入がある。構想力が限界に直面し、なんらかの感性的自然に帰する。感性界の広大さをまとめるのが理性である。理性を除するに当たり理性を必要とする。ここにおける構想力の力は理性の力なしには発揮されえない。はたして、これが美の感覚にも当てはめられるのか?
美の感覚の発生は客観的な射程を持った原則を要求してくる。美的なものへの関心は、美の感覚の構成要素ではなく、自然における美の算出にかかわるものである。
美の感覚の発生は悟性概念の中に含まれているものよりはるかに多くのことを考えさせる。悟性の無制限性により、構想力も解放されることになる。
あらゆる能力の無規定で超感性的な統一、自由な一致は魂において最も奥深いものである。

美的理念:自然の中にそれに対応する対象がない。われわれに与えられているのとは別の自然(考えさせる自然)についての直感を想像するからである。

カントの言う天才:自然美についてのもろもろの結論を芸術美へと拡大する規則を提供するのが天才。天才を持って、理性が喚起され、構想力を開放し、悟性を高次のものへと高めてきたのかもしれない。
判断力はいかなるときも何物にも還元できない独創的なもの。判断力は諸能力の一致において成立する。この一致は立法的役割を果たしうる。われわれの諸能力はその本姓において異なっているが、自由に自発的に一致をなすのであり、この一致により各々の能力がひとつの主の下で行使されうることになる。

悟性は、アプリオリに諸現象の内容・現実の経験の詳細、個別の法則を規定することはない。自然の可能性とその産出については意図に従って作用する原因を思い浮かべるほか判断を下すことはできない。


共通感覚:諸能力の一致。
我々は物自体ではなく、その現象に対し法則を当てはめそれを認識している。これが客体の主体への必然的従属である。
自分自身の中に自分を規定するものを見出す場合、自立的な意思となる。道徳的な共通感覚とは理性の主導のもと行われる理性と悟性の一致である。
美的判断における理性・悟性・構想力の一致。共通感覚の発生。この発生は自然と諸能力との偶然の一致により創出される。ここで生まれる共通感覚が、後に生まれる純粋理性・実践理性を生み出していく。

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