2010年11月3日水曜日

ニーチェ

ニーチェ

アフォリズム:前兆的  芸術家による様々な「視覚」が生まれる・・・之すなわち立法者となる。ゆえにプラトンは「詩」を恐れた。
思想のネガティブ性・・・哲学をするに避けられない。思想は生を裁くこと、すなわちより高い価値を生に付すために、「生」を試練にかける。つまり、生の根幹にまで行き着く。これにより、生は最も弱い形態にまで還元される。そして最終的に、否定性(生の無価値)が肯定性(生の有価値)を圧倒することになる。
哲学の退化・・・ソクラテスが「ひとつの尺度」として物事を区別しようとしたことから哲学の退化が始まった。ようするに、「優劣」「真偽」「善悪」を区別した。カントがこれに疑を呈し、認識することの理想そのものに疑問を投げかけた。

宗教に属するものは「神」という名の重荷を背負っている。
ニーチェ:諸価値の転倒には「神の死(否定的見解を考えること)」と「あるがままの実在を自認すること」が必要

歴史において我々が立ち会うのは「イエス」が「ノー」に屈するということ。より多元的な方向へと我々は逃げ込む傾向にある。
ニヒリズムが勝るとき、そのとき初めて「力」への意思は「作り出す」という意味をやめ「力」を欲すること、支配しようと欲望することを意味する。(既成の価値、貨幣、権力を我が物として要求することを意味する)「力」への意思は奴隷のそれであり、無力なものが「力」について考える様態である。ニヒリズムに屈すると人間は欲を出し始める。

怨恨・・・お前のせいだ、お前さえいなかったら等の投射的な非難。
疚しい心・・・私が悪い、私のせいだ等内向投射のモメント
禁欲主義的理想・・・高位の価値を背負い、それで責任を果たしたと感じる反動的な生しか許容しない。
神の死・・・自分自身が神となり、死の論理的帰結を欲する
人間は常に既成の価値の下に統治されている。旧来の価値を新しい価値に置き換え(重ね合わせる)ようとすることをやめなければ「真の人間」たりえない。価値を失った世界へと転落していくとき、「真の人間」が生まれる。虚無を意思するのではなく、意思を虚無とすること。

否定がそれ自身として一つの能動となり、上位の肯定へと至るために、滅びようと望む人間にまで至らねば(それを超えなえれば)ならなかった。
否定的なものはより高次の肯定に使えるように転換する
永遠回帰とは・・・死んでも次の生があるということ。しかし、この生は「人生の楽しみ」を謡うものではなく、「人生の肯定」を対象としている。
永遠回帰は選択的・・・中途半端な意思はすべてふるい落とされ、肯定的な意思のみが繰り返される。

超人(否定を乗り越えたもの)は他人から授けられることはない。自己からのみ生み出される。

カントやヘーゲルの「確認・定式化」ではなく、創造・実行が大切である。
ギリシア悲劇:ディオニュソス的なコーラスのことであり、そのコーラスが自分の内から外へと向かってアポロン的な諸処の世界を投射することによって緊張の高まった事故を発散していく過程で理解される。

キリスト教的人間・・・生きることに苦悩し、心貧しく、不運な人間。(ショーペンハウアー的な悲壮感)

人間が意志するということ・・・意思に対し実現の可能性を事故の中で肯定的にとらえているということ。精神の肉体支配と肉体の精神への服従。ここから、哲学が生まれる。

勇気が危険に身をさらしながらあえて前進することが可能な限りにおいて真実へと近づいていく。
苦に対し、意思を転換(苦からの逃避)させる(死を逃れたい・変化を逃れたい・欲望から逃れたいetc)・・・この転換により何らかの意味を持つ「意味性」へと我々を導いてくれる。これが虚無の意思である。これを超えたところに「超人」がいる。

憐み・同情・・・生のエネルギーを下降させる作用をもつ。人の心を消沈させる。中途半端な「残り物」を多く生み出す。ショーペンハウアー的。

「生存に満足することなく、生み出せ!」
おy                                                               
自らを肯定的にいきよ。来世でも同じことがなされるのだから。肯定を伴わない生など苦でしかない。選択せよ、己が欲する所の所与を。従属もよい、それを己が欲するなら。孤独もよい、それを己が欲するならば。

快楽とは苦痛と一体のもの。(プラトンの「パイドン」のなかのソクラテスの言葉)

真に存在することではなく、純粋に生成することの肯定。統一性を保つことではなく、多数多様化することの肯定。常に「動き」ある力こそ(留まらない力)価値がある。

救済の期待は「生の力」の嫌悪に当たる。自らが切り開かなければならない。

フォイエル・バッハ・・・神とは人間の本質が投射的に対象化されたもの。人間の属性が神へと投影され理想化されたものである。神の所有化。一見神殺しと捉えられかねないが、自己の中に神を保全することになるだけ。外的権威によって受動的に禁じられていたもの(外的に与えられてきたもの)を自己から進んで荷を背負うようになっただけである。

プラトンに端を発する哲学は「服従」を根幹においている。根本的に「同一性」を前提にした差異、二次的に派生した差異しか取り入れることができない。差異でありながら「差異」から離れることができないでいる。

デリダ

デリダ

哲学とはエクリチューるによって成り立つ。したがって、それを綴る言語、メタファー、文の彩に決定的に依存する。文学と同じであろう。

ゾンビの決定不可能性:生きているが死んでいる。生と死の中間。決定不可能なものの恐怖。ここが脱構築への足がかり。秩序あるものに恐怖の毒を吐きながらも、秩序へと回帰していかなければならない。しかし、回帰しない終わり方もある。中間者としてとらえること。

書くことと話すこと:エジプトのトートという発明神→文字の発明。全体の王→タムス
トート「民の記憶と知恵に働くパルマコン(魔法の一服)を発見した」このパルマコンは良薬にも毒薬にもなるモルヒネのようなもの。 タムス「文字を書く者は記憶の鍛錬を怠る。記憶を外的なしるしに依存することになる。これは仮象の知恵である。」文字には不適切な使用の際に、文字を助ける父が必要である。文字自体が「対象」と語ることができないから。ちなみに、言語を録画したものも「文字言語」の内に含まれる。 
しかし、これをそのまま受け取るのはよろしくない。 なぜなら、我々は記憶を心の中に「刻む」こと、「取り出す」ことからも文字言語との善悪がつかなくなってしまうはずであるから。

パルコマス(身代わりの山羊):町の内部に見出される悪であり、町の清らかさを保つために外へ追放しなければならない。内部に存在していながら外部へと追いやられる。双方に属する必要があろう。決定不可能性がここに生まれる。
プラトンが文字を使って「文字言語の悪」を語るが、文字を用い、それに依存している点。

文字言語は無益であるというのが、古き哲学者たちの考え。しかし、文字言語が何をもたらしたか?諸所の芸術、政治システム、資本主義を生み出してきた。発明という観点から見ると文字は大きな役目を果たしたといえる。その役目が良いにしろ悪いにしろ…

現前:次の主張の根拠となる。
真理とは仮象の背後に存在しうる。 神の言葉と真理の間には直接的結びつきが存在する。 時代精神は特定の時代について教え、教えるがゆえにその時代の内部に現前しうる。 写真は重要な瞬間、今を捉えることができる。 芸術家が表現する感情は作品に現前する。

音声言語による完全な現前、文字言語による不完全な現前。
文字言語は書き手の生存そのものを超えて効力を及ぼす。現前の断絶、死の可能性を含む。
死せる意味作用が文字言語の特色。

音声言語と文字言語→現象学と構造主義
フッサールの戦略:●基本的なものだけを残し、他を一切締め出す。●言語の外的部分を締め出す。●意味を内部として取り扱う。 ただ己自身と向き合う意識の問題に限るのが現象学。
表示的記号:意味作用は行うが動的な意図を欠く記号。  表現的記号:意図的な力を備える記号。 落葉が「秋である」ことを意味する。このとき、木の葉には「秋」というような意図はなく、表示的である。
ソシュール:記号表現と記号内容はそれぞれ互いを必要としている。肉体と魂の関係。
ソシュールの差異の概念:一枚の紙を様々に切り取るとき、それぞれ独自の形をとる。他の形との関係性により差異が生まれ、その差異に縛られることになる。記号表現と概念内容はこの差異により生み出されることになる。

痕跡
音声言語であろうと文字言語であろうと言語の構成要素は単純なものではない。もうひとつの要素と関係を持つことなしには機能しえない。システムの中の他の要素を痕跡として存在させることを前提にしている。

差延…ソシュール的記号の両側面(記号表現と記号内容)を横断する形で現れる。
差延は知覚可能なものを超えている。知覚可能なものには空間、時間的なギャップが必要であるが、この溝は十分に認識されたことがない。音声言語における音と音の間の間、文字言語における紙面の空白や句読点。
差延は理解可能なものを超えている。知覚可能なものは理解可能なものの内にあるからである。
ようはどっちつかず。

オースティン
言語遂行文:言葉とともに何かを行う。結婚、主張、開幕など
事実確認文:真偽、何かを含蓄するのではなく、表す。
しかし、劇や詩における引用的なもの、単純反復、再利用している言語は別枠で考える。
デリダはこれすらも含めて考える。 反復可能性:反復により正確な原義は損なわれる。
ここで、接木の概念:そもそも、反復可能性はすべての記号に見出されるものであろう。引用がいい例である。「私と夫は」→「彼女は言った「私と夫は」→「先週私は言った「彼女は話を始めた「私の夫は」」」
書くということは常に盗まれた言葉で書くことに等しい。
署名の疑わしさ:署名は日々なされるが、それは反復行為。反復行為ゆえにそれは無意味なものとなるであろうか? 反復可能性は署名を可能にする条件であるが、同時にまたその不可能性の条件とも言える。厳密な純粋性は保ちようがないということ。
ここで述べたいこと・・・コミュニケーションの反復可能性→管理不可能性・誤認性→伝達不可能性。  しかし、それは成り立つ。署名が成り立つように。

脱構築:自らを不可能なものと認めたところで失うものなど少しもない。脱構築の実践にとて、可能性というものは危険である。使いやすい揃った方法、アプローチに陥ってしまうかもしれないからだ。不可能性の経験(証明ではない)こそ、脱構築の利点。

エクリチュールと文学
文学や哲学には保証された本質などない。一定の強力な合意のもと基礎が前提として積み上げられてきたに過ぎない。科学には自然現象という保障がある。哲学と文学を混合汚染することで何をえられるのか?を実践したのがデリダ。
マラルメの詩:普通は複数の意味、暗示を詩的に示したとみなされるが、デリダは単語の分解として読む。「Or(黄金)」を詩文に見出していく。そして、作者の人性・旅・家族などを声がかれるまで語られるべきであると述べている。

言説の有意味性を測定する絶対基準など一切存在しない。
デリダは解釈の限界を探し出す。ここに限界とは標準的な批評の手法が頓挫し、保障済みの解釈法が失敗する地点を指す。解釈者の「フレーム」内でのみ作品を解釈することを批判する。もちろん、それを一手段として用いるのは宜しきことであろう。

カントの分析によるフレーム:内部を囲い保護しながら外部も作り出す枠。そしてこの枠を保護する枠、枠…  この枠は絵の枠に当てはまる。内部と外部を絶つがコミュニケーション可能なものでもある。 内部と外部の両方に開かれた枠は作品を纏め上げるが、それを超えれば作品が崩れ去る境界でもある。作品を作り、壊すものである。

絵の具で影を縁取る絵画を見て・・・
画家は盲目:対象またはモデルは画家に向かい合っているにせよ、絵というしるしが制作されるまさにその瞬間には見ることができない。ギャップが存在する。そして、描くことは記憶に依存することになる。このとき、目の前の対象はむしされる。
描くプロセスは盲目:現前と不在の戯れなしには不可能。

脱構築:一種のニヒリズム?通常前提とされているものを問題にするからよくいわれる。
脱構築は政治的かつ倫理的な含意をもつ。
結局、デリダがやりたいことは「文学作品・哲学は偏った見方に縛られず、縦横無尽に解釈してもよい」ということか。哲学に抗い、挑発し、新たな動きへと掻き立てる活動にこだわった。

最後にフェミニズム論争
脱構築の実践と革命的フェミニズムは相容れない。 革命的フェミニズムは反発的であり、功利主義的であるから。(レヴィナス愛の現象学参照)
実践を相手にすると、デリダの脱構築は困難な面に遭遇する。脱構築が論理的なコミットを行わなければならないとするなら、それは基礎付けられた価値を必然的に受け入れなくてはならなくなるから。

デュシャン

デュシャン

デュシャン:彼の芸術に対する全ての解釈を、それが非常なこじつけであっても物静かに黙認していた。なぜなら、それらの解釈は人の創造物であると考えて興味を抱いていたからだ。

審査員なし、賞なしという展示をアメリカで浸透させた。

マティスらフォービズム:独特な色とリズムをだすために、しばしば画面に絵の具を単独で用いた。絵の具はそのまま使える「レディ・メイド」となっていた。
キュビズム:作家が主題の外観を写すのではなく、主題そのものを再構築するということに重きを置いた。

オディロン・ルドン:グラフィックアーティスト。内なる想像世界の表出と顕微鏡下で世界を分析するような科学の影響もうかがうことが出来る。デュシャンはルドンの声高に半学究性を唱えるのではなく、控えめで際立った個人主義的態度に模範像をみた。

輪郭だけで描いて、女性を髪で見分けさせ、男性を顎で見分けさせ、計算道理にそれぞれの性別を表している。

「ソナタ」「デュルシネ」:エロティックな光景でありながら、エロティックな感覚が全く失われている。エロティックな動きではなく、静なるものがそこに現れている。

デュシャンの前半の作品(主として絵画作品)からは、ピカソに近い構造破壊型のキュビズムを感じ取ることが出来る。

画家にとっては、他の画家から影響を受けるよりも作家から影響を受けるほうがずっと良い。マラルメ、ポー、哲学人等、20世紀初頭は正に哲学と芸術の時代であったことからも双方が相互に深く関係していたことは容易に読み取れる。

芸術が進むべき道は動物的表現ではなく、知的表現へと進むべき。つまり、より解釈学的になって行くべきであるということか?ある程度の「知識」をデュシャンは鑑賞者に対しても要求する。

ルッセル:新しい意味を作るための観念のこじつけ…これはデュシャンを大きく惹き付けた。デュシャンはしばしば、何を示すのかは判然としないまま、本来の作品さえも越えて何かを暗示する、長くて謎めいた題目を考えた。一種の言葉遊びを大切にした。

カンディンスキー:才能や技、そして活気が多少あれば対象物はカンヴァス上で生命を与えられる。そしてそれが洗礼されたものか、粗野なものかはともかく「絵画」として呈示される。カンヴァス上の物を調和させることが、芸術作品へと続く道なのである。冷めて、突き放した目でそれ鑑賞する。鑑賞家は「技術」を賞賛し、「絵画」を楽しむのである。
 大勢の人が部屋の中を歩き回っては、カンヴァスが良いとか素晴らしいとか思う。言うべきことのある人は何にも言わず、またそれを聴く耳を持った人は何も聴かなかった。このような芸術の状態を「l’art pour l’art」という。
 芸術家は自分の技術や発明、観察力に対して物質的な報酬を求める。自分の野望・貪欲さを満たすことが目的である。こういった感情は、憎悪や偏見、内紛、嫉妬など目標の無い物質主義的芸術の結果生まれるのである。

1912~ デュシャンは科学的概念の根底を揺るがすような様々な発見があった数学や物理学といった分野を追求した。確実な認識の源であると考えていた近代自然科学という分野で不可能論が主流となり、その哲学がデュシャンの新しい芸術の核心を形成していく。

デュシャンが製作し発現した事物間の関係には決して最終段階なるものがない。

一般市民には理解できないが、エリートには理解できる芸術内容なるものをデュシャンは提供した。保守的で伝統にとらわれた従来の芸術とは異なる芸術を創出したデュシャンへの賞賛を呼び込んだ。

デュシャンは、彼の作品に一万ドル出すといわれても、全く興味を示さなかった。金よりも、芸術世界に対する彼の信念なるものの方が、より上位に位置していたのであろう。

ユーモアを通じて考えさせるような作品をデュシャンはたくさん制作した。

「泉」:作品そのものが素晴らしいのではない。日用品を取り上げ、新しい題材にし、見方を変え、従来の意味を壊してしまった所に作家の力量なるものを見出す。

デュシャンの詩は「行間」の雰囲気のように、何も語らぬままである。いつも形式や発想や感情が混ざり合い、重なり合って変容し続けている。

デュシャンは全作品を俯瞰し、ここの部品が変換可能であることを強調した。

「何故くしゃみをしない?」:この作品に込められた思い…くしゃみ=むずむずする異物を外へ追い出す。同じように、デュシャンはむずむずする従来の絵画価値基準なるものを追い出したかったのであろう。

ディベート

ディベート

多角的な視点で問題を検証し、議論を発展させる 
交渉力養成の手段として不可欠。

議論を発展させるために、あえて反論を述べる。

学問的・政策論的→実社会ディベート   授業・研修的→競技ディベート

コミュニケーション能力、判断力、調査能力、即断力…ディベートに優れる人に対し、社会のリーダーとしての資質を備えているとし、補助・後押しする。

時には自分の思っていることと反対の立場に立ってディベートを行うのも大切。

外国語で話す以前に、日本語で議論すら出来ない現状を鑑みると、英語教育+日本語教育双方を鍛えなければならない。

優秀な学生:家庭において・学校において知的な討論を豊富に経験している。

議論構築→グループの考え、反証準備、立案作成、問題分析
リサーチ→evidence作成、データ収集解析、背景・哲学

哲学に結びつく問題分析は、政策などの議論においてより説得力が増す。

新聞や本に書いてあることをそのまま述べるのではなく、書いてあることに対し反論を立証してみるようにする。その際、logicが通っていないといけない。

学生に対し問題意識を持たせ、具体的な問いの発し方や問題解決の方法を教えることによって、自ら積極的に考え調査し議論するようになる。

ディベートで出た全ての議論を自分達が掲げる哲学に結びつけることで哲学を強化していく。

尋問・質問において、大きな囲いから小さな囲いへと質問の的を3段階くらいでしぼめていくことで、聴衆に理解しやすく、また、相手側が反論しにくい返答を得ることが出来る。

時間が余れば、もう一度自分達の主張を繰り返したり、新たな具体例を述べるのも一つの手。予め「議論に出す案」と「サブの案」を用意しておくことも重要。

哲学の重要性:社会倫理観を鍛えるために、哲学は必要。しかし、日本ではこれが弱い。フランスのように大学試験で哲学論述を必須とするような制度を設けてもいいだろう。

肯定側が勝つ時:否定側の予想していなかった立案を出す 否定側の議論を攻撃する 否定側が反論できないほど強い立案を出す。
備えあれば憂いなし。準備段階でほぼ全てが決まる。

弁証法:反対関係や対立関係を甘受して受け入れるのではなく、まずそれらを認識し、克服し、解決しようとするところに弁証法はある。認識することにより、一歩一歩部分から全体の認識に向かいうる。

写真論

写真論


撮影した映像は世界への言説というよりも、世界の断片であり、誰にでも作れるし手にも入る現実の小型模型といったものである。

絵画や散文で描いたものは取捨選択した解釈以外のものではありえないが、写真は取捨選択した透かし絵として扱うことができる。 前者は思考の中で、後者は現実の中で取捨選択している。

写真を撮ることは画家の狙いから大きく逸脱するものであった。写真術は多数の主題をとらえることを含みにしていたが、絵画はそれほど壮大な視野を持ったことは無かった。
⇒あらゆる経験を映像に翻訳することによって民主化するという約束の実現。

写真撮影は経験の証明の道であるが、経験を否定する道でもある。写真のなるものを探して経験を狭めたり、経験を映像や記念品に置き換えてしまうからである。

写真は時間の明快な薄片であって流れではないから、動く映像よりは記憶にとどめられるといえよう。テレビは選別度の低い映像の流れであって、次々と先行のものを取り消していく。スチール写真はそれぞれ特権的な瞬間を華奢な物体に変じたもので、人はそれを自分のものにしてもう一度眺めることができる。

初めてポルノ映画を見たときに覚える驚きと困惑も、数本も見れば薄れていくように、残虐な場面の写真が与えるショックも、繰り返し眺めているうちに薄れていく。

マラルメ:世界のあらゆるものは本になるために存在する。今日、あらゆるものは写真になるために存在する。

アーバスの作品:大部分は醜く、それに奇怪なものやつましい衣服をまとい、陰気だったりがらんとしている環境にいて、立ち止まってポーズをとったり、素直な打ち解けた眼差しで観客を見つめていることがおおい。彼女の作品は、見る人に彼女が撮影した宿無しや惨めな姿の人々と同化することを求めない(勿論、そのように受け取る人もいようが)。人類は一つではないことを示している。

アーバスは生活に割り込む事故や事件は決して写真に撮らなかっただろう。じわじわと生まれてから信仰する故人の災難をとることを専門としていた。
あまりにショッキングだったり、痛ましかったり、当惑させたりで、以前は見開きするにたえなかったものに私たちを慣らすことによって、芸術は道徳-情緒や自然感情からいって、我慢できるものとできないものの間にあいまいな線を引く、あの精神の習慣と公衆是認という代物-を変える。

アーバスは論理的なジャーナリズムには興味が無かった。何の価値もつけられずに、ただ転がっているのを見つけたと思えるような被写体を選んだ。それは非歴史的な被写体で、公衆というよりも私的な病理学、世界周知というよりも秘められた生活である。

シュルレアリスム:常に偶然を求め、招かれざるものを歓迎し、無秩序な存在におもねた。みずからを虚像で、しかも最小の努力で創りだす物体ほど超現実的なものがあろうか。

ボードレールが表しているように、写真家は都会の地獄を調査、闊歩、巡回する孤独な散歩者、都会を官能の極まった風景として発見する覗き見趣味の者の武装した形態である。

ザンダー:社会階級に光を当て、それを不特定多数の社会的典型に細分することを狙った。それが出版されて五年経った1934年、ナチスはザンダーの写真集『現代の顔』を押収した。

知的職業人や金持ちは屋内で頭部の支えを使わずに撮影する。労働者とはみ出し者は普通屋外のセットの前で撮影される。彼らをしかるべき場所に据えて、彼らの代弁をし、まるで彼らは通常は中流と上流階級で身につく類の個別主体性を持ち合わせていないとされているかのようである。

30年代のニューヨーク:美と伝統というよりも、加速された貧欲から発生する土着の幻想曲であった。

無言の過去に対してその解きがたい複雑さをそっくり自分の声で語らせようとする、ベンヤミンの心をさいなむ潔癖さの観念は、写真の中に普遍化されると、過去を保存するという行為を通じて過去の解体を積み重ね、新たに平行した現実をくみたてることによって過去を直接のものにしながら、過去の滑稽だったり悲しかったりする虚しさを強調し、過去の特徴に際限も無い皮肉をかぶせ、現在を過去に、過去を過去性へと変貌させることになる。

写真術は18世紀の文人による廃墟の美の発見を、真に大衆的な趣味の域へと広げている。さらにそれはローリンが撮った老醜の美といった類の、ロマン主義者の廃墟を越えた美をもモダニストの廃墟へと拡げている。
写真家は否応なしに、現実を古風に見せることに従事している⇒過去をほのめかすようにするために創り出される廃墟である。

カメラは見ることによってもっと多くを理解できるようになっただけではない。カメラは見ることのために見るという観念を養うことによって、見ること自体を変えたのである。
他の諸感覚から切り離されないで見ること、文脈の中で見ること、見る価値があると考えたものについてある想定と結びついてみること。

良い写真は何らかの批評をおこなうという人間の決断の刻印を、美は求めている。

無思慮で気取らない、また無慈悲なことも多い写真の目的が、美ではなく真実を明かすことであると宣言しても、写真はやはり美化しいてしまう。実際、写真の収めた勝利で一番長持ちするものは、ばかげたもの、老朽化したものに美を発見するその適正であった。

社会的関心をもった写真家は、自分達の作品がある種の安定した意味を伝え、真理を明らかにできるものだと思っている。しかし、写真はいつも文脈の中の対象物であるために、この意味は流出することになる。つまり、写真に考えられるどんな直接的な用途を形成する文脈も、このような用途が薄められ、次第に問題性を失っていく文脈が必然的に後に続くのである。 時間の経過とともに、現実問題が変遷するということ。
写真の特徴の一つとして、もとの用途が変更させられ、結局はその後の用途によって取って代われる。

キャプション:言葉は写真よりも声高に喋る。キャプションは私たちの眼の証言を踏みにじる傾向がある。しかし、どんなキャプションも、写真の意味を永久に制約したり保障したりすることはできない。

写真の撮影と写真の種集の中に全て含まれている欲深い心性と、あらゆる写真が必然的に提案する主題との美的関係によって限定されるのを防ぐことはできない。ある特殊な歴史的瞬間を引き裂くように語る類の写真でさえも、それらの主題の代理所有を、美しいものという一種永遠の相の下に私たちに与える。

写真がメッセージであるなら、そのメッセージは透明であると同時に不可解なものである。アーバスが述べたように、「写真は秘密の秘密である。それは語れば語るほどわからなくなる」理解を与えるという錯覚はあっても、写真を通してみることが本当に求めているものは、美的意識を養い、情緒的な突き放しを促すその世界に心を向けるような関係である。
写真は見るものへの「考えること」を促すものである。
アヴェドン:彼の良いポートレートの大部分は撮影する時になって始めてあったっ人たちのものだと述べている。 

アンセルアダムス:写真は偶然ではない。それは概念である。<数打ちゃ当る>式の撮り方でたくさんのネガを作ると致命的であり、ろくな結果はえられない。
カルティエブレッソン:考えるのは先か後で、実際の撮影中は決して考えるな。
⇒自身の哲学に基づく名言

写真の撮影は客観的世界を私物化する無限の技術であると同時に、単一自我の避けがたく唯我論的表現でもある。カメラは既存の芸術を暴くだけだが、写真はそれを描く。

写真を撮るのではなく、「つくる」ことをアダムスは進めている。写真は自我と世界との本来的にどちらともつかぬ関係の例である。写真がいうところのリアリズムのイデオロギーは、世界との関係で自我の末梢を命令することもあれば、自我を賛美して世界に攻撃を仕掛ける関係を正当と認めることもある。その関係のどちらか一方の立場が常に再発見され、擁護されている。

アマチュアとプロフェッショナル、素朴なものと洗練されたものの区別は絵画よりも写真のほうがつけがたいというわけではない―それはほとんど意味がないのである。無邪気な、単に実用的な写真は、最高に有能なプロの写真制作と変わるところは無い。無名のアマチュアの撮った写真でもエヴァンズのものと同じくらい興味深く、複雑な形式を持ち、写真特有の力を備えたものがある。

私たちは撮影された被写体に関心をもつ限り、その写真家は極力控えめであることを期待する。写真ジャーナリズムの成功自体が、一人の優秀な写真家の作品が、彼または彼女が専売の主題を持っていない限りは、他の写真家の作品と区別がつきにくいということにある。これらの写真は個人の芸術家の意識ではなく、世界の映像として力を持っている。

新しい立場は、芸術としての写真を技術的な完成という重苦しい基準から解放し、同時に写真を美からも解放することを目指す。それはどんな主題もどんな技術も写真の資格を奪うことにはならない、世界的な趣味の可能性を開くものである。

写真において言葉が貧しい理由…写真批評の豊かな伝統が無いため。



ベンヤミンのアウラの一回性に関し、オリジナルの作品と、その後何世代にもわたる(現像を繰り返してきた)写真との間では、大きな違いがある。現像におけるマニエラ、時の経過によるマチュアといった要素を考慮するべきであろう。

美術館がおよそ通俗的なものを特定の傾向を持って尊重するのには、美術館側に歴史主義者の見解が広まっているからであり、それは否応なしに写真全史の成立を促そうとするものである。

ますます多くの出来事が私たちの経験に入ってくる媒体としての写真映像の重要性は、結局それが経験から切り離されて独立した知識を有効に供給できることの副産物に過ぎない。

写真は品位を貶める方向に、絵画はそれを仰々しいものにする方向にむかう。

メルヴィルの『ピエール』:「人間よりも尊敬を払われる資格ができる。肖像画については小さく見せる要素など考えられもしないことだが、人間にはどうしようもなく小さく見せるものが沢山まとわりついて想像されるのだ。」

資本主義社会は大量の娯楽を提供する必要がある。またそれは、無際限の量の情報を集める必要があり、天然資源を開拓し、秩序を維持し、戦争をし、官僚に仕事を与えるためにはますます好都合な社会である。 大衆には景観として、支配者には監視の対象としての能力をカメラは有する。(2000年以降においては幾分その内実は変わってきているのも考慮すべきであろう。)

ソシュール

ソシュール

言語の起源は擬音語・擬声語であろう。

地球のどの場所にも、一つの言語状態があり、それが週ごと、月ごと、世紀ごとにゆっくり変化している。
               通時
         ラング <          連辞
ランガージュ <       共時・・・体系<
         パロール        |   連合
                        |          シニフィエ
                     辞項・・・シーニェ<
                                    シニフィアン

月並みなラングの組み合わせがパロールの中で変調をきたし、そこから詩の様な新しい意味が生じてきて、あれこれ試みられたあげく、忘れられたり珍重されたり、ついには自然沙汰によって存続し続けたものがラングに登録されていく。

通時:時間軸に沿ったとらえかた  共時:同時代的な捉え方
体系の中にあるエレメントのことを辞項(テルム)とよぶ。 テルムは相互依存の状態にあり、関係こそがその存在を成立させている。

ラングの中の新語:モザイクのように付加されたり削除されたりするのではなく、常に体系の組み換えとして表される。

不定形な思考にも音声にも、言語記号によって始めて明確な形が生じる。
シニフィエはシニフィアンほど確固としたエレメントは取り出せない。

記号素:ぎりぎりのところで記号とされるもの、記号の最小単位で表されうるもの。

メルロ・ポンティ:フッサールの超越論的主体性を受け入れない。超越であることが、観念論の元凶そのものであると述べている。

私たちの思考や行動は当人の使う言語体系によって左右される。物事の意味を決定するのは近代的主体としての個人の意志や努力ではなく、その所属する社会・時代による。

フーコー:文化圏や時代が作り上げる独自の認識構造を「エピステーメー」とよぶ。個人のものの見方、選択は、すべて時代や社会から強制される意識化のシステム=構造によって大きく規定されているのであり、実存主義者たちが自由な自己決定と考えているものの多くは、実は、かなり表層的な行為に他ならない。

ラカン:鏡像段階…他者からの様々な働きかけを通して他者から自己へと一種の歴史粗描がもたらされ、以後、個々人の捉えどころのなかった無意識のうちに、過去と未来とが刻み込まれていくような構造契機でもあろう。
ラカンのシニフィアン(事物・現象の定格)の連鎖。

キュビズム:対象を様々な様相に解体して表現するから換愈的。
シュルレアリスム:対象を変容させることによって表現するから隠喩的。
前者は「一杯飲んでく?」  後者は「男はみんな狼」

バルト:坂は作品の隅々までを支配するものではなく、作品の意味もまた一元的なものではありえない。読者の読みに触発され、そこに意味を生成させるのではないか。作品の一人歩き(表象芸術とおなじ)

コノテーション:シニフィアンのもととなる「シーニェ」 
メタ言語:シニフィエのもととなる「シーニェ」

ジンメルコレクション

ジンメルコレクション

ある価値やある感情が一つの面で高まっている時に、他の面でも高まっていると連想する。

ただ、芸術作品だけが世界全体が一つの全体であるような意味で一つの全体でありえている。作品の額縁によって物の多様な分散性というものから確固と分かたれている。

男性:現時点だけで自己解決可能となる完全な自由を獲得する。浮気性。

世間はどうでもいいような盗みにはこだわるが、それと同じで通りに立つ哀れな娼婦達に対しては道徳的な憤怒の全てを投げつける。しかし、娼婦が高級であるほどその矛先は緩む。

貨幣と女性の交換性:女性の地位が低いほど、個人であることが少ないほど、商品と値段の不均衡がないということになる。

世間は義務が難しければ難しいほどその義務を厳格に課してくる。

社会全体の展開の最終的な理想といえるのは、身体的=官能の発現と精神的=性格の発現がうまく調和し、両者が時間的にずれることがないという状態。しかし、文化の増大によって両者は引き裂かれてしまい、難しい状況が生じた。

ルネッサンス期の女性::様々な教養を積み、外で活躍するきかいが多くあった。この時期のイタリア女性のファッションは突飛なファッションが流行した記録はない。他の領域で個性化が上手く達成できていた。


取っ手:容器に権利要求をする外界と、そのような外界にかまうことなく自身のために権利要求する芸術形式の、二つの要素が埋まっている。両者のバランスが大切。
これを実社会へと応用する。個人もひとつのサークルの有機的な完結性の内部での役割を保持することを生の芸術から要求されている。しかし、個人は同時により大きな統一体の目的にも仕え、その奉仕を通じて、より狭いサークルを周囲のサークルの中に組み込むのを助ける。
一方の全体性が他方の全体性を、引き裂かれるということなしに、捉えるための手がかりとなること、これこそ、人間の世界観、世界構成における最も素晴らしいことだ。

扉:壁は沈黙しているが扉は語っている。人間が自分で自分に境界を設定しているということ。しかし、その境界をふたたび廃棄し、その外側に立つことができるという自由を確保しながらこれを行っているということ。これこそ、人間の深層にとって本質的なことだ。

橋はどちらの方向にも、常に開かれている。扉は片一方にしか開かれていない。窓は内部から外部に対する一方方向にしか開かれていない。意図を持って両者を行き来することができるのは扉においてだけである。


ヴェネチア:フィレンツェの城のような外観を備え、権力の厳粛な、華麗な展開、それら全てが自身と自己責任を背負う人格の表現である。これに対し、ヴェネチアは気取った遊び、包み隠すヴェールといった自分自身の美の法則にしか従わない。
ヴェネチアではあらゆるものが美しさの全てを表層に集め、自分自身は引きこもって後ろのほうで表層の美を見守っている。


額縁:自己自身のための世界となり、自分にとって外的なもの全てに対して自分自身を閉ざす。芸術における境界とは、外に向かっては無関心と自己防衛を、内に向かっては統一的結束を同時に実行する無条件の隔絶を意味している。

大きな画においては、他の者への視線がそれほど大きく関わってこないためさっぱりした額縁でよい。しかし、小さな画においては、周りのものとの隔絶を図るため、仰々しい額縁が好まれる。

芸術作品とその環境のあいだを分離しつつ相互に媒介していくという課題を、額縁が視覚的なものの中で解決していこうとすれば、額縁が前景に出るべきか背景に退くべきか、エネルギーは放出すべきかせき止めるべきかといったことについて、細心の注意を払って考察していく必要がある。  
これは芸術に限ることではない。個人と社会の相互摩擦にいおいても(内が個人、外が社会)同様に考えられよう。

実生活では絶えず要求されている外的なものから内的なものへの心理学的推論などは、芸術家には不要である。芸術の守備範囲を最終的な意図は内的なものにではなく外的なものにあるからだ。


芸術作品の内部に宿る魂とは、実のところ芸術的なカテゴリーと要求にのみ由来し、かつ呼応する特殊な理念的構築物であること、このことが認識された時はじめて、自然主義はいわば潜伏先の最後の隠れ家から追放されるように思える。魂が魂を生み出す。

大理石:白さと光沢によって石の重量感は軽減され、精神化される。身体としての単なる空間がそこには備わっている。柔軟で形と力にもっとも柔軟な素材であること。しかし、実態は非常に重く扱いにくい。人間の力と自然の力との大きな闘争を経て、彫刻の美が生まれるのだ。

いったん悟性と計算と均等化が生に浸透してしまうと、美的欲求は再びその反対物へと逃げ込み、非合理的なものとその外見的形式であるアシンメトリーなものを探し始める。均一化は組織においても(カール五世など)重要視される。より小さな抵抗で予想可能な仕方で、外からの刺戟に対し対応することが出来る。

私達の中に類が生き延びている限り、私達に快感を与える事柄、それこそが私達にとっての美しいものなのかもしれない。その対象の現実的な有用性は、長い時間にわたる歴史的発展と遺伝によって、濾過されてしまっている。しかし、まだまだ発展の余地はあろう。問題はどのような新たな美を我々が感得するのかにかかっている。

高揚した自我は世界からあまりに多くのものを要求するのに対して、社会主義は自我の生活圏を制限することによって貸し借りのバランスを回復し、自我の破産を食い止める。

私達の内なる最高のものが、更なる影響力を発揮しようとしても、適切な取っ掛かりが見つけられないことはよくある。悪は単なる意実としてそこにあるに過ぎず、積極的にそれに立ち向かうのは悪自身ではなく、我々のほうだ。

和解と救済。和解を求めると、新たな問題が浮かび上がってくることは良くある。それは、永遠のいたちごっこのようなものだ。

一度に高い入場料(答え)を払うよりも、中に入ってそのつど小さな犠牲を払うことによって克服される障害を絶えず与え続けるほうが、娯楽の達成はより徹底したものになる。

万博と大見本市:前者は世界各国から物品が集まるが、後者は多数の街から物品がああ詰まる。国内ならば、ほどよい心地よさを生み出し、相対的な対比や強調が作り出される。


よそ者の客観性:身近の人に話せないようなことも、旅人には気楽に話すことが出来るということ。ユダヤ人の特権…国なき客観人。

今日の私達は以前よりずっと深く商品供給者に依存しているが、供給者個々人について言うと、いつでも思い通りに取り替えることが出来る。これが、必然的に強い個人主義を生み出す。全の思考ではなく、個の思考で人生を賄う。

あるものの価値が値段によって決められていく。物が持つ特殊でもっとも個性的な魅力を感じ取る繊細な感受性はひたすら退化していくほかない。

ジョジョ 

ジョジョ

マンガ:空想の幅は自由。街の概観のみならず、生活している人間を放つことも、歴史を与えることも可能。

荒木は「動き」の通:体の動き(形態)はいうまでもなく、心の動きも明察している。

コマの順を追っていくマンガの読み:正統であるようで邪道。人間の視覚構造に反している。ストーリーの奴隷になりやすい。絵を味わうのではなく、ストーリを味わうようであれば書物と変わらなくなってしまう。
マンガの中身…味覚:分析や解釈はとかく理や思い込みが過剰になるので、料理的に見ると、中身の「味」を悪くしてしまう恐れがある。しかし、同時に新たな発見もある。単においしいという観想だけでなく、このスパイスが甘みをうまく抑えて、結果としてこのような上品な味を可能なら占めているといったような解釈を得ることができる。

拷問:肉体的暴力のほかに精神的暴力が加わる。「手」を「考」えて「問」いただす。

奇にして美、奇は鬼、異形の美で醜と背中合わせである。表裏一体であること。

言葉の「しぐさ」:言葉を発する対象・環境・年齢によりさまざまに「しぐさ」は変貌する。

荒木の描くマンガ:運命から逃避し妄想に逃げ込むのではなく、また運命を単に内面化するのでもなく、運命の固有性を内面化した先で、かつそれを多様な潜在性へと開きなおすこと。

プッチ神父:運命への人間の無力さを絶対零度まで推し進めた。神の意思ばかりでなく、俗らいの出来事すら変えられないことへの葛藤がプッチを悩ませた。
プッチはニーチェのような「全き生命」の覚悟を望んでいた。運命を知ることで、それでも生きていかなければならない。「大切なのは何をなすか」ということすらも解っている世界で我々は「何をなすべき」「何を目的に生きるべき」なのであろうか?

ディオ:「どんな人だろうとひとには適材適所がある。それが生きるということである。スタンドにも同様のことが当てはまる。強い・弱いはない。」人の弱さは一般論では語れない。各人に固有の無能や弱さがある。しかも、それは必ず他者との偶然的で抗争的な出会い=引力を通して露になる。

正しさ/間違いが見分けがたい以上、人は「愛する気持ちゆえに愛するものを傷つける」「愛とか正義を願う気持ちを持つあまり間違った道に迷い込む(はたしてそれが間違っているのか判断しかねるが…)という逆説から逃れられない。

真の無償の自己犠牲:自分でも犠牲にしたという実感すらなく、相手も何かを贈与されたという事実に気付かないような、そういう自己犠牲をさすはずであろう。偉大さではなく、そよ風のように当たり前の犠牲。(レヴィナス参照)
他人は許せるが、自分という「敵」はどうしても許せない。自己嫌悪へのスパイラル。

戦いにおける対話/友愛の芽生え:自己犠牲を真に貫くと、殺意という限界点が必ず通過される。敵に最大の敬意を払い、愛すること。最終的には、敵に自らを殺させてあげること。無力状態の者を殺させることで、敵の精神を新たな次元へと引き上げる。(バガボンドの精神をみるとよい。)

一般的に語られてきた「奇跡」:神秘主義や神の特権的恩寵ではなく、卑近で小さな偶然の連鎖からつむがれているという事実。
この世界では、一つの「賭け」の成功/失敗、勝利/敗北の意味も、卑近な出会い=引力の中で無限的連鎖に決定され、また決定されなおしている。

スタンドという二重表象:一人の人間が二重形象化される。意識的に操作可能である点で、「夢・希望」の具象化された「ドッペルゲンガー」のようなものか。(影の歴史と対比)

マニエリスム漫画(技巧的漫画)とジョジョ
古典マンガ:驕慢(きょうまん)な権力志向や放逸な自我や脆弱な自我のことに過ぎなかった。どれも自己の内部でしか発生収束しないものであった。しかし、マニエリスム漫画は違う。外部へと「悪」を求めるようになっていく。当時の社会情勢などを鑑みるに、晩年の手塚治虫が善悪二元論を越えた悪の表象に力を向けていったのは必然であったのかもしれない。
古典漫画において悪は大前提として措定され、そこから反射的に全なるものの言動も決定されていた。しかるにマニエリスム漫画では悪が議論と沈黙嗜好と積極的実践の対象となり、善のほうは対照的に議論の余地の少ない大前提として祭り上げられている。
ジョジョでは?悪の描写に関して、思想の背景・人間の未来性・歴史的反省をもとに精密に記載されている。

16世紀の絵はほとんど、一目見ただけでは何がその主題なのかわからない。それは、統一と明晰さを第一に重視した古典期の作画法の逆をマニエリストが行っているからである。彼らは画面の中のある部分から他の部分へと隠された盲目を張り巡らせる。異なる時間や同一人物が二人いたりする。もはや、絵を客観的な世界の再現とは捉えてはいけない。「絵を読む」という行為はマニエリスムの作品に合致しよう。

荒木:好きな画家の一人にゴーギャンをあげる。画面をエリアで区切り色を塗っている(クロワソニズム)が、画面全体に遠近法的な奥行きあるところが凄いと述べている。
古典的なミケランジェロから強い影響を受けた一方で、バーネットニューマンなどの記号定名作品を好む。記号性の高い作品にしかない表現方法もあるため、新鮮かつ勉強になるのであろう。

フレームの不確定性:映画において、フレームは一定・不変であろう。しかし、漫画においては不定・可変である。枠組みの可変性は大きな題目となる…後々述べる。

ジョジョ:自らに様々なものを与えてくれる父親や師や仲間に対して同一化している
ディオ:自らと同様に奪いつくされた母親に対して同一化している。

第五部のジョルノ:ディオの血を受け継ぎながら、ジョジョ家の血へと進入していく。与えられたものを身につけ、与えられていないもの(奪われたもの)を渇望する「現代人」の表象か?この「現代人」の歩むべき道を荒木は作品の中で示していく。
自らの運命に気付くと、仲間とともに歩み、仲間の離反や死・苦痛を遺産として受け継ぐことを選んだ。ディオのような他者の拒絶ではなく、他者に向かって自らが開かれていることを選び、他者によって自分自身が変わることを恐れない心を持った。

視線から見る漫画:読者の視線は、常に紙面の真正面から注がれるわけではない。 読者の視線は、平面的にではなく立体的に運動する。 実際の目元からではなく仮想的な視点から注がれる「仮想アングル」が存在する。

コルネリス・ファン・デル・ヘーストの収集室:仮想的な支店から左→右へと差し込むような視線が生まれてくる。頭を動かして、左から覗き見たいという衝動に駆られる。
人間は実際に首を傾けずとも、仮想的に首を傾けたような感覚を頭の中で作り出せる。
(唯脳論参照)
また、紙面全体には「アングル」が現れる。(一枚作品を多数並べた場合はこれにあたらない。)。ページのアングルと、次のコマのフレームの形、フレーム内の内容の流れで読者のテンポは様変わりする。



原則1 焦点移動:鑑賞者のアングルが傾く。消失点やコントラスト、指差しポーズなどによっても焦点は移動することとなる。
原則2 アングルの保存:視線を移動するに当たり、余計な情報を取り込まないよう、跳躍的に次の段へと移動する。
原則3 z軸回転のねじれ:コマ内の構図が斜めになっている場合、アングルは傾く(焦点移動に近い)というよりは「ねじれる」。吸い込まれるような見方を想像すればよい。
原則4 正面補正:注視している面に対して垂直に近づくように傾く。傾斜の強いアングルのコマの次に持ってくることでニュートラルに戻す役目もある。
原則5 変形ゴマ:台形ゴマは奥行きのある面と認識されやすい。
原則6 サイトラインの一致:見詰め合う人物同士の視線をつなぐライン。キャラクターを通しての視点か、キャラクターと同位置からの視点か。

荒木割りは独特。様々な技法を駆使して描く。天才。

シミュレーショニズム

シミュレーショニズム

ジェフクーンズ:百貨店で配布されている無償の贈物を美術市場に取り込んで、いつのまにか数万ドルで流通させている⇒現代美術の無根拠なメカニズムを露呈させた。

これ以上、生産しなくても、消費しきれないくらいの様式が過去に眠っている。

リチャードプリンス:どうでもいい広告の切れ端や雑誌の表紙の一部を、モアレなど気にせず大量に複写していく。これほどまでにメディアが発達してしまうと、どんな風景も場面も、それが殺人だろうと戦争だろうと、予めどこかで見たことがあるありきたりのイメージにしか見えなくなる。写真の撮る行為は終わってしまった。写真にやるべきことがあるとすれば、撮り終わった膨大なイメージの集積に、カメラという媒介を使って揺さぶりをかけ、その都度異なったイメージとして再生させることである。
⇒日本では森山大道などの作品(ブレやボケを積極的に作品にとりこむ)

引用:作家の内面的なコンテクストや表現の動機を膨らませるためになされることが多い。
サンプリング:一人の人間にひとりの個性、一人の作家に一つの作風という考え方を、ばらばらに切り崩して表現の外部へと向けて解き放ってしまう。

歴史上すでに評価の確定しているパフォーマンスを再現することで、その伝説の虚構性(ぜんぜん偉大さも何も感じない)をあらわにする。偽物だからつまらないのではなく、そもそも失われた本物自体がさしておもしろくない。

美術館の外では一万円で、中では一億円。その違いは何だろうか?芸術として認められているかいないかという「信用」だけが、後者の付加価値を約束している。

シンディシャーマン:<ヴォーグ>という作品の中で、過去のイメージファイルから様々なスタイルをサンプリングしてきて、それを自分自身の身体を媒介に編集していく。その編集行為の中で、自分の多様性・複数栄・分裂製といったものを再発見していく。

DJのターンテーブル:記録を再編集し、本来は出会うはずのないもの同士を繋げ、今ある歴史軸とは別の流れを生み出していくための編集装置であろう。
イメージの編集においては、カメラがターンテーブルの役目を担う。



明和電気:下町の中小企業のシミュレーション。制服を着て、表情は無く、ひたすら新製品の開発のために日夜努力する社長をモチーフに採っている。日本における「芸能」と「芸術」のあいまいさをついている。

現代は情報がかつてないほど肥大し、飽和した時代である。「新しさの神話」や自分の個性、自分だけにしかできることをしなければならないという強迫観念や、自我の呪縛から解放されて、いろいろな異質なものとのコミュニケーションのなかに、作家性とか内面性といわれてきたものを解放していくことができるようになった。

ハイパー現実:シミュラクルと化したイリュージョン。真/偽の間隙に連続的な真でも偽でもない領域を持つ多値論理によって揺さぶられる。

新たなる自然を様々にオペレートすることによって傍観者的に戯れて見せる。
シミュレーショニズムとは高度に発達した、というよりも、その極限において機能している資本主義が、強度の反物質的補強において成立させたマッハ主義のバリエーションである。

観念の貧困が甚だしい日本。いまだに一綴りの観念への土俗に甘んじている。
が、近年は面白い作家も増えてきた。

森村泰昌:一個の人間が美術史の様々な局面に扮することができることを肉体的に証明することにより、美術史の見かけの多様性が、そこに偏在するある単一性によってこそ保護されていることを暴露する。
グレッグ&グッドマン:「美術史」を写真による書き割りと化すことによって、その前に立つ生身の人間とのギャップを拡大し、誰も美術史の中には立ち入ることができ無いことを証明する。

サンプリングは対象の本質ではなく、本質と関係ない部分、むしろ不必要とされている部分に深い関心を抱いている。 明示されていない部分にこそ、可能性が秘められている。
この、要約できない部分は、流通しない。つまり、それは交換価値を有さない、絶対価値のみ有するものである。

キノコはオスとメスとの間にそれがオスかメスかが確率論的にしか決定できない「無限」をはらんでいる。


われわれは夢を素晴らしいと表現することはできない。それはただ、魅惑的にたち現れるだけである。なぜなら、夢にあってはわれわれの主観が夢という客観に対して対象的に機能していないからだ。

作品への言葉によるメッセージの付与:身勝手な解釈を許さない。そこでは見るだけではなく、「読む」ことが必要になってくる。

シミュラクルの氾濫:幻影が実在の現実に先行してしまい、われわれのモノの見方そのものを逆規定してしまうような自体。

写真というメディアの特性
写真家にとっては、現実というオリジナルにたいするコピーとしての写真という認識論的な構図、美術家にとっては、写真の現像が無限に反復可能であるという存在論的な事実に目がいった。
複写製と複製性の違い⇒前者は異なるネガによる複数性、後者は同一ネガによる複数性。

偶然描かれた絵画は存在しない。しかし、偶然撮られた写真は存在する。写真においては自己と写真装置と世界という幸福な三角関係は、その起源においてすでに単純なかたちで構成されえないものである。

絵画へのマジックの一筆と写真へのマジックの一筆:前者は絵そのものを己の手・思考によって描いていることから「付け足し」に抵抗感が無いが、後者ではおおきな抵抗が現れる。

写真の上から絵画を描く:個々で写真は二重の死を強要される。絵画の厚みによって死んでいること。そして、装置を作動させたその瞬間に写真は生まれると同時に死んでいるということ。

ポップ:資本主義体制下におけるマス・プロダクト。そこに誕生した美学は、テクノロジーの崇高という種類のものである。その欲望の対象は少なくとも「より速く、より強く、よち大きく」あろうとすることによって現実を異化しようとする意志を残していた。

高度資本主義社会においては、商品の使用価値そのものよりも、それに付随するイメージが商品価値の優劣を頻繁に決定する。しかし、そのイメージの差異も、認知不可能な差異なき差異の捏造にまで到達している(イメージによる過剰すぎる差異化)

インタラクティブアート:鑑賞者に作品を鑑賞する過程を指示・強要する⇒作品の制作者とその鑑賞者は究めて交渉的であり、その共役数としてあらわれる作品の「意味」は、表現者と鑑賞者とのあいだにあって究めて確率論的に決定されていく。

ポンピドゥセンター「大地の魔術展」:アメリカ・ドイツ・イタリア(奇しくも戦勝国と敗戦国!)によって主導されてきた現代美術の各種の「イズム」を無化するかのごとくに、第3世界からの作品と、欧米のコンテンポラリーアーティストの作品を同一空間に並列することによって、現代美術の価値ヒエラルキーを脱色し、そこにフランス性の復権を期した。

今日のフランスが、主に北アフリカからの文化亡命者(サッカー選手などで顕著)を最大限受け入れるその受容の寛容において新ヨーロッパ秩序における枢軸「フランス」たりえようとしている。

サルトル

サルトル

現象学
フッサール:意識の主観的な特徴と客観的な特徴をさぐる。
精神状態の背後には多くの仮定がある。この仮定を取り除くことを目的とするのが「現象学的中断」「エポケー」である。

今ここの経験がすべての意識の現象学的零度である。フッサールは純粋な意識の現象学的研究から「純粋自我」「絶対自己」を導きだそうと試みる。

自我の超越:非反省的意識→乗るべき電車を意識する自分 反省的意識→電車を逃したおろかな自分を意識する。後者は二段階的に自分を意識している。前者においては思考の内に自己は存在しない…とサルトルは言うが、思考という行為そのものが自己につながるとデカルトは言いたかったのであろう。
サルトルは「自我の本質的な役割は、意識に対してまさにその自発性を隠蔽する事である」

キルケゴールによる「原罪」 アダムが自分の自由に対峙した際に感じる恐怖ないしは不安。人間の誰もが自由に対し恐怖・不安を覚えるのは間違いない。

嘔吐:人間的経験―世界―存在  主人公ロカンタン
実存を扱うために人間的に創造された世界がある。その世界が存在するために「言語、理論、伝統習慣」が存在する。
直接的に実在と向き合うことはない。人間的な制度を媒介にしてかかわっている。
存在の偶然性:絶対的に不条理なもの、それが「存在」 言葉や伝統などは剥ぎ取ることが可能であるが、存在は消し去ることができない。エポケーにいたると、存在の偶然性(人間の世界での事物の認識ツール)があらわになる。この偶然性は「余計」に付加されたものである。
ライプニッツ:偶然的な存在のすべての鎖の最後→必然的な存在(存在しないことができない存在、神)でおわっている。  あるいは  鎖が無限であり、ある存在状態から次の存在状態へ、また次の存在状態へと連鎖を繰り返す。無意味の遅延。あらゆるものの不条理。
神に至ることができない我々は後者に陥るのであろう。

サルトルの実存主義:実存の不条理性を引き受ける力と勇気を人間の意識に与え、意味のない世界に意味を想像する能力を開示しようと試みる。


対自存在は無によって自分の過去から隔てられている。過去には事実性があるが、今の私がすることの「根源」ではありえない。「要因」ではありうるが。
意味の源泉には故人の側の決定にある。いつでも変わりになる意味解釈はありうるが、何らかの要因で「過去の事実」に縛られた選択を我々はなす傾向にある。過去の事実を持ち出してくる理由は、「未来に対する不安」がある。

では、なぜ絶えず不安を感じていないのか?
選択を行うということと選択を行わないとうことの違い:自分で対象(選択)に対して意味を与えているのか与えていないのかによる。根源的な価値体系を存在させているのは私自身である。

価値
価値のリアリティ:価値を持つから選ばれたというよりは、選ばれたという事実からそのリアリティを持つ。価値は我々が自由に選ぶことができるという条件下で生まれてくる。

自己欺瞞:不安や恐怖からの逃避。自身に対する嘘
役割は根源的な自由を制限したり、隠したりする。我々は役割により他人や自分自身をいっそう容易に対象化してしまう。役割は自己欺瞞への避けがたい誘惑である。
対自存在は常に定義不能で不完全で、自己抹消の可能性を持つ。

他人
他者を見つめることで私は彼を対象化し、彼を私の対称に変えてしまっているにもかかわらず、彼は私にとっての脅威となる。 他者の自由が私の自由を拘束するため。他者を見るということは常に「他者によって見られる可能性があることを理解すること」である。
神とは他者の概念を極限まで推し進めたものに過ぎない。

責任
自由は重荷だ。我々の選択の一つ一つは抵抗、困惑、障害を生み出す。
悲劇的な瞬間においても我々には逃げ出す、自殺するという選択がある。しかし、これをしないという選択を選ぶことは、自ら悲劇を起こす主観者と同じ立場にいることを意味する。

自己とは全体である:根源的投企はすべての行動において現れる(意識の度合いはあろうが)
我々の行動や選択を通じて各瞬間的に的に再創造されていく。自分の顔はまさに歩んできた道そのものである。

フロイトが言うような無意識的な事実などは存在しない。すべては意識の元にある。要はすべて我々の選択により「今の人格を備えた」存在がある。

「我々の責任は大きい、それが人類全体を巻き込むからである。」
これは、我々の選択の連続により故人が形成されていくが、その選択の判断基準は基本的に「世界基準」に依存しているからである。
カントはいう「あなたの行動が他の誰にとってもモデルとなるように行動すべきだ」

全体化:一見ばらばらの行動と出来事を総合的な全体へと収瞼することを意味する。ひとつの歴史のある時点をとれば、それこそが歴史の総和であり、全体を現している。そのある時点は「今現在」の解釈をえて積み上げられているからである。ロシア革命の直前とロシア崩壊直後の社会主義にたいする見方の違いみたいなもの。

個々の実践のうちには可能性と自由がある。それは制度的な形態を生み出し、実践的惰性態と呼ぶものになる。これは未来の実践を支持する歴史的な重みであり、実践の可能性を奪うことになる。