2010年11月3日水曜日

デュシャン

デュシャン

デュシャン:彼の芸術に対する全ての解釈を、それが非常なこじつけであっても物静かに黙認していた。なぜなら、それらの解釈は人の創造物であると考えて興味を抱いていたからだ。

審査員なし、賞なしという展示をアメリカで浸透させた。

マティスらフォービズム:独特な色とリズムをだすために、しばしば画面に絵の具を単独で用いた。絵の具はそのまま使える「レディ・メイド」となっていた。
キュビズム:作家が主題の外観を写すのではなく、主題そのものを再構築するということに重きを置いた。

オディロン・ルドン:グラフィックアーティスト。内なる想像世界の表出と顕微鏡下で世界を分析するような科学の影響もうかがうことが出来る。デュシャンはルドンの声高に半学究性を唱えるのではなく、控えめで際立った個人主義的態度に模範像をみた。

輪郭だけで描いて、女性を髪で見分けさせ、男性を顎で見分けさせ、計算道理にそれぞれの性別を表している。

「ソナタ」「デュルシネ」:エロティックな光景でありながら、エロティックな感覚が全く失われている。エロティックな動きではなく、静なるものがそこに現れている。

デュシャンの前半の作品(主として絵画作品)からは、ピカソに近い構造破壊型のキュビズムを感じ取ることが出来る。

画家にとっては、他の画家から影響を受けるよりも作家から影響を受けるほうがずっと良い。マラルメ、ポー、哲学人等、20世紀初頭は正に哲学と芸術の時代であったことからも双方が相互に深く関係していたことは容易に読み取れる。

芸術が進むべき道は動物的表現ではなく、知的表現へと進むべき。つまり、より解釈学的になって行くべきであるということか?ある程度の「知識」をデュシャンは鑑賞者に対しても要求する。

ルッセル:新しい意味を作るための観念のこじつけ…これはデュシャンを大きく惹き付けた。デュシャンはしばしば、何を示すのかは判然としないまま、本来の作品さえも越えて何かを暗示する、長くて謎めいた題目を考えた。一種の言葉遊びを大切にした。

カンディンスキー:才能や技、そして活気が多少あれば対象物はカンヴァス上で生命を与えられる。そしてそれが洗礼されたものか、粗野なものかはともかく「絵画」として呈示される。カンヴァス上の物を調和させることが、芸術作品へと続く道なのである。冷めて、突き放した目でそれ鑑賞する。鑑賞家は「技術」を賞賛し、「絵画」を楽しむのである。
 大勢の人が部屋の中を歩き回っては、カンヴァスが良いとか素晴らしいとか思う。言うべきことのある人は何にも言わず、またそれを聴く耳を持った人は何も聴かなかった。このような芸術の状態を「l’art pour l’art」という。
 芸術家は自分の技術や発明、観察力に対して物質的な報酬を求める。自分の野望・貪欲さを満たすことが目的である。こういった感情は、憎悪や偏見、内紛、嫉妬など目標の無い物質主義的芸術の結果生まれるのである。

1912~ デュシャンは科学的概念の根底を揺るがすような様々な発見があった数学や物理学といった分野を追求した。確実な認識の源であると考えていた近代自然科学という分野で不可能論が主流となり、その哲学がデュシャンの新しい芸術の核心を形成していく。

デュシャンが製作し発現した事物間の関係には決して最終段階なるものがない。

一般市民には理解できないが、エリートには理解できる芸術内容なるものをデュシャンは提供した。保守的で伝統にとらわれた従来の芸術とは異なる芸術を創出したデュシャンへの賞賛を呼び込んだ。

デュシャンは、彼の作品に一万ドル出すといわれても、全く興味を示さなかった。金よりも、芸術世界に対する彼の信念なるものの方が、より上位に位置していたのであろう。

ユーモアを通じて考えさせるような作品をデュシャンはたくさん制作した。

「泉」:作品そのものが素晴らしいのではない。日用品を取り上げ、新しい題材にし、見方を変え、従来の意味を壊してしまった所に作家の力量なるものを見出す。

デュシャンの詩は「行間」の雰囲気のように、何も語らぬままである。いつも形式や発想や感情が混ざり合い、重なり合って変容し続けている。

デュシャンは全作品を俯瞰し、ここの部品が変換可能であることを強調した。

「何故くしゃみをしない?」:この作品に込められた思い…くしゃみ=むずむずする異物を外へ追い出す。同じように、デュシャンはむずむずする従来の絵画価値基準なるものを追い出したかったのであろう。

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