2010年11月3日水曜日

サルトル

サルトル

現象学
フッサール:意識の主観的な特徴と客観的な特徴をさぐる。
精神状態の背後には多くの仮定がある。この仮定を取り除くことを目的とするのが「現象学的中断」「エポケー」である。

今ここの経験がすべての意識の現象学的零度である。フッサールは純粋な意識の現象学的研究から「純粋自我」「絶対自己」を導きだそうと試みる。

自我の超越:非反省的意識→乗るべき電車を意識する自分 反省的意識→電車を逃したおろかな自分を意識する。後者は二段階的に自分を意識している。前者においては思考の内に自己は存在しない…とサルトルは言うが、思考という行為そのものが自己につながるとデカルトは言いたかったのであろう。
サルトルは「自我の本質的な役割は、意識に対してまさにその自発性を隠蔽する事である」

キルケゴールによる「原罪」 アダムが自分の自由に対峙した際に感じる恐怖ないしは不安。人間の誰もが自由に対し恐怖・不安を覚えるのは間違いない。

嘔吐:人間的経験―世界―存在  主人公ロカンタン
実存を扱うために人間的に創造された世界がある。その世界が存在するために「言語、理論、伝統習慣」が存在する。
直接的に実在と向き合うことはない。人間的な制度を媒介にしてかかわっている。
存在の偶然性:絶対的に不条理なもの、それが「存在」 言葉や伝統などは剥ぎ取ることが可能であるが、存在は消し去ることができない。エポケーにいたると、存在の偶然性(人間の世界での事物の認識ツール)があらわになる。この偶然性は「余計」に付加されたものである。
ライプニッツ:偶然的な存在のすべての鎖の最後→必然的な存在(存在しないことができない存在、神)でおわっている。  あるいは  鎖が無限であり、ある存在状態から次の存在状態へ、また次の存在状態へと連鎖を繰り返す。無意味の遅延。あらゆるものの不条理。
神に至ることができない我々は後者に陥るのであろう。

サルトルの実存主義:実存の不条理性を引き受ける力と勇気を人間の意識に与え、意味のない世界に意味を想像する能力を開示しようと試みる。


対自存在は無によって自分の過去から隔てられている。過去には事実性があるが、今の私がすることの「根源」ではありえない。「要因」ではありうるが。
意味の源泉には故人の側の決定にある。いつでも変わりになる意味解釈はありうるが、何らかの要因で「過去の事実」に縛られた選択を我々はなす傾向にある。過去の事実を持ち出してくる理由は、「未来に対する不安」がある。

では、なぜ絶えず不安を感じていないのか?
選択を行うということと選択を行わないとうことの違い:自分で対象(選択)に対して意味を与えているのか与えていないのかによる。根源的な価値体系を存在させているのは私自身である。

価値
価値のリアリティ:価値を持つから選ばれたというよりは、選ばれたという事実からそのリアリティを持つ。価値は我々が自由に選ぶことができるという条件下で生まれてくる。

自己欺瞞:不安や恐怖からの逃避。自身に対する嘘
役割は根源的な自由を制限したり、隠したりする。我々は役割により他人や自分自身をいっそう容易に対象化してしまう。役割は自己欺瞞への避けがたい誘惑である。
対自存在は常に定義不能で不完全で、自己抹消の可能性を持つ。

他人
他者を見つめることで私は彼を対象化し、彼を私の対称に変えてしまっているにもかかわらず、彼は私にとっての脅威となる。 他者の自由が私の自由を拘束するため。他者を見るということは常に「他者によって見られる可能性があることを理解すること」である。
神とは他者の概念を極限まで推し進めたものに過ぎない。

責任
自由は重荷だ。我々の選択の一つ一つは抵抗、困惑、障害を生み出す。
悲劇的な瞬間においても我々には逃げ出す、自殺するという選択がある。しかし、これをしないという選択を選ぶことは、自ら悲劇を起こす主観者と同じ立場にいることを意味する。

自己とは全体である:根源的投企はすべての行動において現れる(意識の度合いはあろうが)
我々の行動や選択を通じて各瞬間的に的に再創造されていく。自分の顔はまさに歩んできた道そのものである。

フロイトが言うような無意識的な事実などは存在しない。すべては意識の元にある。要はすべて我々の選択により「今の人格を備えた」存在がある。

「我々の責任は大きい、それが人類全体を巻き込むからである。」
これは、我々の選択の連続により故人が形成されていくが、その選択の判断基準は基本的に「世界基準」に依存しているからである。
カントはいう「あなたの行動が他の誰にとってもモデルとなるように行動すべきだ」

全体化:一見ばらばらの行動と出来事を総合的な全体へと収瞼することを意味する。ひとつの歴史のある時点をとれば、それこそが歴史の総和であり、全体を現している。そのある時点は「今現在」の解釈をえて積み上げられているからである。ロシア革命の直前とロシア崩壊直後の社会主義にたいする見方の違いみたいなもの。

個々の実践のうちには可能性と自由がある。それは制度的な形態を生み出し、実践的惰性態と呼ぶものになる。これは未来の実践を支持する歴史的な重みであり、実践の可能性を奪うことになる。

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