2010年11月3日水曜日

シミュレーショニズム

シミュレーショニズム

ジェフクーンズ:百貨店で配布されている無償の贈物を美術市場に取り込んで、いつのまにか数万ドルで流通させている⇒現代美術の無根拠なメカニズムを露呈させた。

これ以上、生産しなくても、消費しきれないくらいの様式が過去に眠っている。

リチャードプリンス:どうでもいい広告の切れ端や雑誌の表紙の一部を、モアレなど気にせず大量に複写していく。これほどまでにメディアが発達してしまうと、どんな風景も場面も、それが殺人だろうと戦争だろうと、予めどこかで見たことがあるありきたりのイメージにしか見えなくなる。写真の撮る行為は終わってしまった。写真にやるべきことがあるとすれば、撮り終わった膨大なイメージの集積に、カメラという媒介を使って揺さぶりをかけ、その都度異なったイメージとして再生させることである。
⇒日本では森山大道などの作品(ブレやボケを積極的に作品にとりこむ)

引用:作家の内面的なコンテクストや表現の動機を膨らませるためになされることが多い。
サンプリング:一人の人間にひとりの個性、一人の作家に一つの作風という考え方を、ばらばらに切り崩して表現の外部へと向けて解き放ってしまう。

歴史上すでに評価の確定しているパフォーマンスを再現することで、その伝説の虚構性(ぜんぜん偉大さも何も感じない)をあらわにする。偽物だからつまらないのではなく、そもそも失われた本物自体がさしておもしろくない。

美術館の外では一万円で、中では一億円。その違いは何だろうか?芸術として認められているかいないかという「信用」だけが、後者の付加価値を約束している。

シンディシャーマン:<ヴォーグ>という作品の中で、過去のイメージファイルから様々なスタイルをサンプリングしてきて、それを自分自身の身体を媒介に編集していく。その編集行為の中で、自分の多様性・複数栄・分裂製といったものを再発見していく。

DJのターンテーブル:記録を再編集し、本来は出会うはずのないもの同士を繋げ、今ある歴史軸とは別の流れを生み出していくための編集装置であろう。
イメージの編集においては、カメラがターンテーブルの役目を担う。



明和電気:下町の中小企業のシミュレーション。制服を着て、表情は無く、ひたすら新製品の開発のために日夜努力する社長をモチーフに採っている。日本における「芸能」と「芸術」のあいまいさをついている。

現代は情報がかつてないほど肥大し、飽和した時代である。「新しさの神話」や自分の個性、自分だけにしかできることをしなければならないという強迫観念や、自我の呪縛から解放されて、いろいろな異質なものとのコミュニケーションのなかに、作家性とか内面性といわれてきたものを解放していくことができるようになった。

ハイパー現実:シミュラクルと化したイリュージョン。真/偽の間隙に連続的な真でも偽でもない領域を持つ多値論理によって揺さぶられる。

新たなる自然を様々にオペレートすることによって傍観者的に戯れて見せる。
シミュレーショニズムとは高度に発達した、というよりも、その極限において機能している資本主義が、強度の反物質的補強において成立させたマッハ主義のバリエーションである。

観念の貧困が甚だしい日本。いまだに一綴りの観念への土俗に甘んじている。
が、近年は面白い作家も増えてきた。

森村泰昌:一個の人間が美術史の様々な局面に扮することができることを肉体的に証明することにより、美術史の見かけの多様性が、そこに偏在するある単一性によってこそ保護されていることを暴露する。
グレッグ&グッドマン:「美術史」を写真による書き割りと化すことによって、その前に立つ生身の人間とのギャップを拡大し、誰も美術史の中には立ち入ることができ無いことを証明する。

サンプリングは対象の本質ではなく、本質と関係ない部分、むしろ不必要とされている部分に深い関心を抱いている。 明示されていない部分にこそ、可能性が秘められている。
この、要約できない部分は、流通しない。つまり、それは交換価値を有さない、絶対価値のみ有するものである。

キノコはオスとメスとの間にそれがオスかメスかが確率論的にしか決定できない「無限」をはらんでいる。


われわれは夢を素晴らしいと表現することはできない。それはただ、魅惑的にたち現れるだけである。なぜなら、夢にあってはわれわれの主観が夢という客観に対して対象的に機能していないからだ。

作品への言葉によるメッセージの付与:身勝手な解釈を許さない。そこでは見るだけではなく、「読む」ことが必要になってくる。

シミュラクルの氾濫:幻影が実在の現実に先行してしまい、われわれのモノの見方そのものを逆規定してしまうような自体。

写真というメディアの特性
写真家にとっては、現実というオリジナルにたいするコピーとしての写真という認識論的な構図、美術家にとっては、写真の現像が無限に反復可能であるという存在論的な事実に目がいった。
複写製と複製性の違い⇒前者は異なるネガによる複数性、後者は同一ネガによる複数性。

偶然描かれた絵画は存在しない。しかし、偶然撮られた写真は存在する。写真においては自己と写真装置と世界という幸福な三角関係は、その起源においてすでに単純なかたちで構成されえないものである。

絵画へのマジックの一筆と写真へのマジックの一筆:前者は絵そのものを己の手・思考によって描いていることから「付け足し」に抵抗感が無いが、後者ではおおきな抵抗が現れる。

写真の上から絵画を描く:個々で写真は二重の死を強要される。絵画の厚みによって死んでいること。そして、装置を作動させたその瞬間に写真は生まれると同時に死んでいるということ。

ポップ:資本主義体制下におけるマス・プロダクト。そこに誕生した美学は、テクノロジーの崇高という種類のものである。その欲望の対象は少なくとも「より速く、より強く、よち大きく」あろうとすることによって現実を異化しようとする意志を残していた。

高度資本主義社会においては、商品の使用価値そのものよりも、それに付随するイメージが商品価値の優劣を頻繁に決定する。しかし、そのイメージの差異も、認知不可能な差異なき差異の捏造にまで到達している(イメージによる過剰すぎる差異化)

インタラクティブアート:鑑賞者に作品を鑑賞する過程を指示・強要する⇒作品の制作者とその鑑賞者は究めて交渉的であり、その共役数としてあらわれる作品の「意味」は、表現者と鑑賞者とのあいだにあって究めて確率論的に決定されていく。

ポンピドゥセンター「大地の魔術展」:アメリカ・ドイツ・イタリア(奇しくも戦勝国と敗戦国!)によって主導されてきた現代美術の各種の「イズム」を無化するかのごとくに、第3世界からの作品と、欧米のコンテンポラリーアーティストの作品を同一空間に並列することによって、現代美術の価値ヒエラルキーを脱色し、そこにフランス性の復権を期した。

今日のフランスが、主に北アフリカからの文化亡命者(サッカー選手などで顕著)を最大限受け入れるその受容の寛容において新ヨーロッパ秩序における枢軸「フランス」たりえようとしている。

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