2010年11月3日水曜日

デリダ

デリダ

哲学とはエクリチューるによって成り立つ。したがって、それを綴る言語、メタファー、文の彩に決定的に依存する。文学と同じであろう。

ゾンビの決定不可能性:生きているが死んでいる。生と死の中間。決定不可能なものの恐怖。ここが脱構築への足がかり。秩序あるものに恐怖の毒を吐きながらも、秩序へと回帰していかなければならない。しかし、回帰しない終わり方もある。中間者としてとらえること。

書くことと話すこと:エジプトのトートという発明神→文字の発明。全体の王→タムス
トート「民の記憶と知恵に働くパルマコン(魔法の一服)を発見した」このパルマコンは良薬にも毒薬にもなるモルヒネのようなもの。 タムス「文字を書く者は記憶の鍛錬を怠る。記憶を外的なしるしに依存することになる。これは仮象の知恵である。」文字には不適切な使用の際に、文字を助ける父が必要である。文字自体が「対象」と語ることができないから。ちなみに、言語を録画したものも「文字言語」の内に含まれる。 
しかし、これをそのまま受け取るのはよろしくない。 なぜなら、我々は記憶を心の中に「刻む」こと、「取り出す」ことからも文字言語との善悪がつかなくなってしまうはずであるから。

パルコマス(身代わりの山羊):町の内部に見出される悪であり、町の清らかさを保つために外へ追放しなければならない。内部に存在していながら外部へと追いやられる。双方に属する必要があろう。決定不可能性がここに生まれる。
プラトンが文字を使って「文字言語の悪」を語るが、文字を用い、それに依存している点。

文字言語は無益であるというのが、古き哲学者たちの考え。しかし、文字言語が何をもたらしたか?諸所の芸術、政治システム、資本主義を生み出してきた。発明という観点から見ると文字は大きな役目を果たしたといえる。その役目が良いにしろ悪いにしろ…

現前:次の主張の根拠となる。
真理とは仮象の背後に存在しうる。 神の言葉と真理の間には直接的結びつきが存在する。 時代精神は特定の時代について教え、教えるがゆえにその時代の内部に現前しうる。 写真は重要な瞬間、今を捉えることができる。 芸術家が表現する感情は作品に現前する。

音声言語による完全な現前、文字言語による不完全な現前。
文字言語は書き手の生存そのものを超えて効力を及ぼす。現前の断絶、死の可能性を含む。
死せる意味作用が文字言語の特色。

音声言語と文字言語→現象学と構造主義
フッサールの戦略:●基本的なものだけを残し、他を一切締め出す。●言語の外的部分を締め出す。●意味を内部として取り扱う。 ただ己自身と向き合う意識の問題に限るのが現象学。
表示的記号:意味作用は行うが動的な意図を欠く記号。  表現的記号:意図的な力を備える記号。 落葉が「秋である」ことを意味する。このとき、木の葉には「秋」というような意図はなく、表示的である。
ソシュール:記号表現と記号内容はそれぞれ互いを必要としている。肉体と魂の関係。
ソシュールの差異の概念:一枚の紙を様々に切り取るとき、それぞれ独自の形をとる。他の形との関係性により差異が生まれ、その差異に縛られることになる。記号表現と概念内容はこの差異により生み出されることになる。

痕跡
音声言語であろうと文字言語であろうと言語の構成要素は単純なものではない。もうひとつの要素と関係を持つことなしには機能しえない。システムの中の他の要素を痕跡として存在させることを前提にしている。

差延…ソシュール的記号の両側面(記号表現と記号内容)を横断する形で現れる。
差延は知覚可能なものを超えている。知覚可能なものには空間、時間的なギャップが必要であるが、この溝は十分に認識されたことがない。音声言語における音と音の間の間、文字言語における紙面の空白や句読点。
差延は理解可能なものを超えている。知覚可能なものは理解可能なものの内にあるからである。
ようはどっちつかず。

オースティン
言語遂行文:言葉とともに何かを行う。結婚、主張、開幕など
事実確認文:真偽、何かを含蓄するのではなく、表す。
しかし、劇や詩における引用的なもの、単純反復、再利用している言語は別枠で考える。
デリダはこれすらも含めて考える。 反復可能性:反復により正確な原義は損なわれる。
ここで、接木の概念:そもそも、反復可能性はすべての記号に見出されるものであろう。引用がいい例である。「私と夫は」→「彼女は言った「私と夫は」→「先週私は言った「彼女は話を始めた「私の夫は」」」
書くということは常に盗まれた言葉で書くことに等しい。
署名の疑わしさ:署名は日々なされるが、それは反復行為。反復行為ゆえにそれは無意味なものとなるであろうか? 反復可能性は署名を可能にする条件であるが、同時にまたその不可能性の条件とも言える。厳密な純粋性は保ちようがないということ。
ここで述べたいこと・・・コミュニケーションの反復可能性→管理不可能性・誤認性→伝達不可能性。  しかし、それは成り立つ。署名が成り立つように。

脱構築:自らを不可能なものと認めたところで失うものなど少しもない。脱構築の実践にとて、可能性というものは危険である。使いやすい揃った方法、アプローチに陥ってしまうかもしれないからだ。不可能性の経験(証明ではない)こそ、脱構築の利点。

エクリチュールと文学
文学や哲学には保証された本質などない。一定の強力な合意のもと基礎が前提として積み上げられてきたに過ぎない。科学には自然現象という保障がある。哲学と文学を混合汚染することで何をえられるのか?を実践したのがデリダ。
マラルメの詩:普通は複数の意味、暗示を詩的に示したとみなされるが、デリダは単語の分解として読む。「Or(黄金)」を詩文に見出していく。そして、作者の人性・旅・家族などを声がかれるまで語られるべきであると述べている。

言説の有意味性を測定する絶対基準など一切存在しない。
デリダは解釈の限界を探し出す。ここに限界とは標準的な批評の手法が頓挫し、保障済みの解釈法が失敗する地点を指す。解釈者の「フレーム」内でのみ作品を解釈することを批判する。もちろん、それを一手段として用いるのは宜しきことであろう。

カントの分析によるフレーム:内部を囲い保護しながら外部も作り出す枠。そしてこの枠を保護する枠、枠…  この枠は絵の枠に当てはまる。内部と外部を絶つがコミュニケーション可能なものでもある。 内部と外部の両方に開かれた枠は作品を纏め上げるが、それを超えれば作品が崩れ去る境界でもある。作品を作り、壊すものである。

絵の具で影を縁取る絵画を見て・・・
画家は盲目:対象またはモデルは画家に向かい合っているにせよ、絵というしるしが制作されるまさにその瞬間には見ることができない。ギャップが存在する。そして、描くことは記憶に依存することになる。このとき、目の前の対象はむしされる。
描くプロセスは盲目:現前と不在の戯れなしには不可能。

脱構築:一種のニヒリズム?通常前提とされているものを問題にするからよくいわれる。
脱構築は政治的かつ倫理的な含意をもつ。
結局、デリダがやりたいことは「文学作品・哲学は偏った見方に縛られず、縦横無尽に解釈してもよい」ということか。哲学に抗い、挑発し、新たな動きへと掻き立てる活動にこだわった。

最後にフェミニズム論争
脱構築の実践と革命的フェミニズムは相容れない。 革命的フェミニズムは反発的であり、功利主義的であるから。(レヴィナス愛の現象学参照)
実践を相手にすると、デリダの脱構築は困難な面に遭遇する。脱構築が論理的なコミットを行わなければならないとするなら、それは基礎付けられた価値を必然的に受け入れなくてはならなくなるから。

0 件のコメント:

コメントを投稿