2010年11月3日水曜日

ジンメルコレクション

ジンメルコレクション

ある価値やある感情が一つの面で高まっている時に、他の面でも高まっていると連想する。

ただ、芸術作品だけが世界全体が一つの全体であるような意味で一つの全体でありえている。作品の額縁によって物の多様な分散性というものから確固と分かたれている。

男性:現時点だけで自己解決可能となる完全な自由を獲得する。浮気性。

世間はどうでもいいような盗みにはこだわるが、それと同じで通りに立つ哀れな娼婦達に対しては道徳的な憤怒の全てを投げつける。しかし、娼婦が高級であるほどその矛先は緩む。

貨幣と女性の交換性:女性の地位が低いほど、個人であることが少ないほど、商品と値段の不均衡がないということになる。

世間は義務が難しければ難しいほどその義務を厳格に課してくる。

社会全体の展開の最終的な理想といえるのは、身体的=官能の発現と精神的=性格の発現がうまく調和し、両者が時間的にずれることがないという状態。しかし、文化の増大によって両者は引き裂かれてしまい、難しい状況が生じた。

ルネッサンス期の女性::様々な教養を積み、外で活躍するきかいが多くあった。この時期のイタリア女性のファッションは突飛なファッションが流行した記録はない。他の領域で個性化が上手く達成できていた。


取っ手:容器に権利要求をする外界と、そのような外界にかまうことなく自身のために権利要求する芸術形式の、二つの要素が埋まっている。両者のバランスが大切。
これを実社会へと応用する。個人もひとつのサークルの有機的な完結性の内部での役割を保持することを生の芸術から要求されている。しかし、個人は同時により大きな統一体の目的にも仕え、その奉仕を通じて、より狭いサークルを周囲のサークルの中に組み込むのを助ける。
一方の全体性が他方の全体性を、引き裂かれるということなしに、捉えるための手がかりとなること、これこそ、人間の世界観、世界構成における最も素晴らしいことだ。

扉:壁は沈黙しているが扉は語っている。人間が自分で自分に境界を設定しているということ。しかし、その境界をふたたび廃棄し、その外側に立つことができるという自由を確保しながらこれを行っているということ。これこそ、人間の深層にとって本質的なことだ。

橋はどちらの方向にも、常に開かれている。扉は片一方にしか開かれていない。窓は内部から外部に対する一方方向にしか開かれていない。意図を持って両者を行き来することができるのは扉においてだけである。


ヴェネチア:フィレンツェの城のような外観を備え、権力の厳粛な、華麗な展開、それら全てが自身と自己責任を背負う人格の表現である。これに対し、ヴェネチアは気取った遊び、包み隠すヴェールといった自分自身の美の法則にしか従わない。
ヴェネチアではあらゆるものが美しさの全てを表層に集め、自分自身は引きこもって後ろのほうで表層の美を見守っている。


額縁:自己自身のための世界となり、自分にとって外的なもの全てに対して自分自身を閉ざす。芸術における境界とは、外に向かっては無関心と自己防衛を、内に向かっては統一的結束を同時に実行する無条件の隔絶を意味している。

大きな画においては、他の者への視線がそれほど大きく関わってこないためさっぱりした額縁でよい。しかし、小さな画においては、周りのものとの隔絶を図るため、仰々しい額縁が好まれる。

芸術作品とその環境のあいだを分離しつつ相互に媒介していくという課題を、額縁が視覚的なものの中で解決していこうとすれば、額縁が前景に出るべきか背景に退くべきか、エネルギーは放出すべきかせき止めるべきかといったことについて、細心の注意を払って考察していく必要がある。  
これは芸術に限ることではない。個人と社会の相互摩擦にいおいても(内が個人、外が社会)同様に考えられよう。

実生活では絶えず要求されている外的なものから内的なものへの心理学的推論などは、芸術家には不要である。芸術の守備範囲を最終的な意図は内的なものにではなく外的なものにあるからだ。


芸術作品の内部に宿る魂とは、実のところ芸術的なカテゴリーと要求にのみ由来し、かつ呼応する特殊な理念的構築物であること、このことが認識された時はじめて、自然主義はいわば潜伏先の最後の隠れ家から追放されるように思える。魂が魂を生み出す。

大理石:白さと光沢によって石の重量感は軽減され、精神化される。身体としての単なる空間がそこには備わっている。柔軟で形と力にもっとも柔軟な素材であること。しかし、実態は非常に重く扱いにくい。人間の力と自然の力との大きな闘争を経て、彫刻の美が生まれるのだ。

いったん悟性と計算と均等化が生に浸透してしまうと、美的欲求は再びその反対物へと逃げ込み、非合理的なものとその外見的形式であるアシンメトリーなものを探し始める。均一化は組織においても(カール五世など)重要視される。より小さな抵抗で予想可能な仕方で、外からの刺戟に対し対応することが出来る。

私達の中に類が生き延びている限り、私達に快感を与える事柄、それこそが私達にとっての美しいものなのかもしれない。その対象の現実的な有用性は、長い時間にわたる歴史的発展と遺伝によって、濾過されてしまっている。しかし、まだまだ発展の余地はあろう。問題はどのような新たな美を我々が感得するのかにかかっている。

高揚した自我は世界からあまりに多くのものを要求するのに対して、社会主義は自我の生活圏を制限することによって貸し借りのバランスを回復し、自我の破産を食い止める。

私達の内なる最高のものが、更なる影響力を発揮しようとしても、適切な取っ掛かりが見つけられないことはよくある。悪は単なる意実としてそこにあるに過ぎず、積極的にそれに立ち向かうのは悪自身ではなく、我々のほうだ。

和解と救済。和解を求めると、新たな問題が浮かび上がってくることは良くある。それは、永遠のいたちごっこのようなものだ。

一度に高い入場料(答え)を払うよりも、中に入ってそのつど小さな犠牲を払うことによって克服される障害を絶えず与え続けるほうが、娯楽の達成はより徹底したものになる。

万博と大見本市:前者は世界各国から物品が集まるが、後者は多数の街から物品がああ詰まる。国内ならば、ほどよい心地よさを生み出し、相対的な対比や強調が作り出される。


よそ者の客観性:身近の人に話せないようなことも、旅人には気楽に話すことが出来るということ。ユダヤ人の特権…国なき客観人。

今日の私達は以前よりずっと深く商品供給者に依存しているが、供給者個々人について言うと、いつでも思い通りに取り替えることが出来る。これが、必然的に強い個人主義を生み出す。全の思考ではなく、個の思考で人生を賄う。

あるものの価値が値段によって決められていく。物が持つ特殊でもっとも個性的な魅力を感じ取る繊細な感受性はひたすら退化していくほかない。

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