2010年11月3日水曜日

ニーチェ

ニーチェ

アフォリズム:前兆的  芸術家による様々な「視覚」が生まれる・・・之すなわち立法者となる。ゆえにプラトンは「詩」を恐れた。
思想のネガティブ性・・・哲学をするに避けられない。思想は生を裁くこと、すなわちより高い価値を生に付すために、「生」を試練にかける。つまり、生の根幹にまで行き着く。これにより、生は最も弱い形態にまで還元される。そして最終的に、否定性(生の無価値)が肯定性(生の有価値)を圧倒することになる。
哲学の退化・・・ソクラテスが「ひとつの尺度」として物事を区別しようとしたことから哲学の退化が始まった。ようするに、「優劣」「真偽」「善悪」を区別した。カントがこれに疑を呈し、認識することの理想そのものに疑問を投げかけた。

宗教に属するものは「神」という名の重荷を背負っている。
ニーチェ:諸価値の転倒には「神の死(否定的見解を考えること)」と「あるがままの実在を自認すること」が必要

歴史において我々が立ち会うのは「イエス」が「ノー」に屈するということ。より多元的な方向へと我々は逃げ込む傾向にある。
ニヒリズムが勝るとき、そのとき初めて「力」への意思は「作り出す」という意味をやめ「力」を欲すること、支配しようと欲望することを意味する。(既成の価値、貨幣、権力を我が物として要求することを意味する)「力」への意思は奴隷のそれであり、無力なものが「力」について考える様態である。ニヒリズムに屈すると人間は欲を出し始める。

怨恨・・・お前のせいだ、お前さえいなかったら等の投射的な非難。
疚しい心・・・私が悪い、私のせいだ等内向投射のモメント
禁欲主義的理想・・・高位の価値を背負い、それで責任を果たしたと感じる反動的な生しか許容しない。
神の死・・・自分自身が神となり、死の論理的帰結を欲する
人間は常に既成の価値の下に統治されている。旧来の価値を新しい価値に置き換え(重ね合わせる)ようとすることをやめなければ「真の人間」たりえない。価値を失った世界へと転落していくとき、「真の人間」が生まれる。虚無を意思するのではなく、意思を虚無とすること。

否定がそれ自身として一つの能動となり、上位の肯定へと至るために、滅びようと望む人間にまで至らねば(それを超えなえれば)ならなかった。
否定的なものはより高次の肯定に使えるように転換する
永遠回帰とは・・・死んでも次の生があるということ。しかし、この生は「人生の楽しみ」を謡うものではなく、「人生の肯定」を対象としている。
永遠回帰は選択的・・・中途半端な意思はすべてふるい落とされ、肯定的な意思のみが繰り返される。

超人(否定を乗り越えたもの)は他人から授けられることはない。自己からのみ生み出される。

カントやヘーゲルの「確認・定式化」ではなく、創造・実行が大切である。
ギリシア悲劇:ディオニュソス的なコーラスのことであり、そのコーラスが自分の内から外へと向かってアポロン的な諸処の世界を投射することによって緊張の高まった事故を発散していく過程で理解される。

キリスト教的人間・・・生きることに苦悩し、心貧しく、不運な人間。(ショーペンハウアー的な悲壮感)

人間が意志するということ・・・意思に対し実現の可能性を事故の中で肯定的にとらえているということ。精神の肉体支配と肉体の精神への服従。ここから、哲学が生まれる。

勇気が危険に身をさらしながらあえて前進することが可能な限りにおいて真実へと近づいていく。
苦に対し、意思を転換(苦からの逃避)させる(死を逃れたい・変化を逃れたい・欲望から逃れたいetc)・・・この転換により何らかの意味を持つ「意味性」へと我々を導いてくれる。これが虚無の意思である。これを超えたところに「超人」がいる。

憐み・同情・・・生のエネルギーを下降させる作用をもつ。人の心を消沈させる。中途半端な「残り物」を多く生み出す。ショーペンハウアー的。

「生存に満足することなく、生み出せ!」
おy                                                               
自らを肯定的にいきよ。来世でも同じことがなされるのだから。肯定を伴わない生など苦でしかない。選択せよ、己が欲する所の所与を。従属もよい、それを己が欲するなら。孤独もよい、それを己が欲するならば。

快楽とは苦痛と一体のもの。(プラトンの「パイドン」のなかのソクラテスの言葉)

真に存在することではなく、純粋に生成することの肯定。統一性を保つことではなく、多数多様化することの肯定。常に「動き」ある力こそ(留まらない力)価値がある。

救済の期待は「生の力」の嫌悪に当たる。自らが切り開かなければならない。

フォイエル・バッハ・・・神とは人間の本質が投射的に対象化されたもの。人間の属性が神へと投影され理想化されたものである。神の所有化。一見神殺しと捉えられかねないが、自己の中に神を保全することになるだけ。外的権威によって受動的に禁じられていたもの(外的に与えられてきたもの)を自己から進んで荷を背負うようになっただけである。

プラトンに端を発する哲学は「服従」を根幹においている。根本的に「同一性」を前提にした差異、二次的に派生した差異しか取り入れることができない。差異でありながら「差異」から離れることができないでいる。

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