2010年11月3日水曜日

写真論

写真論


撮影した映像は世界への言説というよりも、世界の断片であり、誰にでも作れるし手にも入る現実の小型模型といったものである。

絵画や散文で描いたものは取捨選択した解釈以外のものではありえないが、写真は取捨選択した透かし絵として扱うことができる。 前者は思考の中で、後者は現実の中で取捨選択している。

写真を撮ることは画家の狙いから大きく逸脱するものであった。写真術は多数の主題をとらえることを含みにしていたが、絵画はそれほど壮大な視野を持ったことは無かった。
⇒あらゆる経験を映像に翻訳することによって民主化するという約束の実現。

写真撮影は経験の証明の道であるが、経験を否定する道でもある。写真のなるものを探して経験を狭めたり、経験を映像や記念品に置き換えてしまうからである。

写真は時間の明快な薄片であって流れではないから、動く映像よりは記憶にとどめられるといえよう。テレビは選別度の低い映像の流れであって、次々と先行のものを取り消していく。スチール写真はそれぞれ特権的な瞬間を華奢な物体に変じたもので、人はそれを自分のものにしてもう一度眺めることができる。

初めてポルノ映画を見たときに覚える驚きと困惑も、数本も見れば薄れていくように、残虐な場面の写真が与えるショックも、繰り返し眺めているうちに薄れていく。

マラルメ:世界のあらゆるものは本になるために存在する。今日、あらゆるものは写真になるために存在する。

アーバスの作品:大部分は醜く、それに奇怪なものやつましい衣服をまとい、陰気だったりがらんとしている環境にいて、立ち止まってポーズをとったり、素直な打ち解けた眼差しで観客を見つめていることがおおい。彼女の作品は、見る人に彼女が撮影した宿無しや惨めな姿の人々と同化することを求めない(勿論、そのように受け取る人もいようが)。人類は一つではないことを示している。

アーバスは生活に割り込む事故や事件は決して写真に撮らなかっただろう。じわじわと生まれてから信仰する故人の災難をとることを専門としていた。
あまりにショッキングだったり、痛ましかったり、当惑させたりで、以前は見開きするにたえなかったものに私たちを慣らすことによって、芸術は道徳-情緒や自然感情からいって、我慢できるものとできないものの間にあいまいな線を引く、あの精神の習慣と公衆是認という代物-を変える。

アーバスは論理的なジャーナリズムには興味が無かった。何の価値もつけられずに、ただ転がっているのを見つけたと思えるような被写体を選んだ。それは非歴史的な被写体で、公衆というよりも私的な病理学、世界周知というよりも秘められた生活である。

シュルレアリスム:常に偶然を求め、招かれざるものを歓迎し、無秩序な存在におもねた。みずからを虚像で、しかも最小の努力で創りだす物体ほど超現実的なものがあろうか。

ボードレールが表しているように、写真家は都会の地獄を調査、闊歩、巡回する孤独な散歩者、都会を官能の極まった風景として発見する覗き見趣味の者の武装した形態である。

ザンダー:社会階級に光を当て、それを不特定多数の社会的典型に細分することを狙った。それが出版されて五年経った1934年、ナチスはザンダーの写真集『現代の顔』を押収した。

知的職業人や金持ちは屋内で頭部の支えを使わずに撮影する。労働者とはみ出し者は普通屋外のセットの前で撮影される。彼らをしかるべき場所に据えて、彼らの代弁をし、まるで彼らは通常は中流と上流階級で身につく類の個別主体性を持ち合わせていないとされているかのようである。

30年代のニューヨーク:美と伝統というよりも、加速された貧欲から発生する土着の幻想曲であった。

無言の過去に対してその解きがたい複雑さをそっくり自分の声で語らせようとする、ベンヤミンの心をさいなむ潔癖さの観念は、写真の中に普遍化されると、過去を保存するという行為を通じて過去の解体を積み重ね、新たに平行した現実をくみたてることによって過去を直接のものにしながら、過去の滑稽だったり悲しかったりする虚しさを強調し、過去の特徴に際限も無い皮肉をかぶせ、現在を過去に、過去を過去性へと変貌させることになる。

写真術は18世紀の文人による廃墟の美の発見を、真に大衆的な趣味の域へと広げている。さらにそれはローリンが撮った老醜の美といった類の、ロマン主義者の廃墟を越えた美をもモダニストの廃墟へと拡げている。
写真家は否応なしに、現実を古風に見せることに従事している⇒過去をほのめかすようにするために創り出される廃墟である。

カメラは見ることによってもっと多くを理解できるようになっただけではない。カメラは見ることのために見るという観念を養うことによって、見ること自体を変えたのである。
他の諸感覚から切り離されないで見ること、文脈の中で見ること、見る価値があると考えたものについてある想定と結びついてみること。

良い写真は何らかの批評をおこなうという人間の決断の刻印を、美は求めている。

無思慮で気取らない、また無慈悲なことも多い写真の目的が、美ではなく真実を明かすことであると宣言しても、写真はやはり美化しいてしまう。実際、写真の収めた勝利で一番長持ちするものは、ばかげたもの、老朽化したものに美を発見するその適正であった。

社会的関心をもった写真家は、自分達の作品がある種の安定した意味を伝え、真理を明らかにできるものだと思っている。しかし、写真はいつも文脈の中の対象物であるために、この意味は流出することになる。つまり、写真に考えられるどんな直接的な用途を形成する文脈も、このような用途が薄められ、次第に問題性を失っていく文脈が必然的に後に続くのである。 時間の経過とともに、現実問題が変遷するということ。
写真の特徴の一つとして、もとの用途が変更させられ、結局はその後の用途によって取って代われる。

キャプション:言葉は写真よりも声高に喋る。キャプションは私たちの眼の証言を踏みにじる傾向がある。しかし、どんなキャプションも、写真の意味を永久に制約したり保障したりすることはできない。

写真の撮影と写真の種集の中に全て含まれている欲深い心性と、あらゆる写真が必然的に提案する主題との美的関係によって限定されるのを防ぐことはできない。ある特殊な歴史的瞬間を引き裂くように語る類の写真でさえも、それらの主題の代理所有を、美しいものという一種永遠の相の下に私たちに与える。

写真がメッセージであるなら、そのメッセージは透明であると同時に不可解なものである。アーバスが述べたように、「写真は秘密の秘密である。それは語れば語るほどわからなくなる」理解を与えるという錯覚はあっても、写真を通してみることが本当に求めているものは、美的意識を養い、情緒的な突き放しを促すその世界に心を向けるような関係である。
写真は見るものへの「考えること」を促すものである。
アヴェドン:彼の良いポートレートの大部分は撮影する時になって始めてあったっ人たちのものだと述べている。 

アンセルアダムス:写真は偶然ではない。それは概念である。<数打ちゃ当る>式の撮り方でたくさんのネガを作ると致命的であり、ろくな結果はえられない。
カルティエブレッソン:考えるのは先か後で、実際の撮影中は決して考えるな。
⇒自身の哲学に基づく名言

写真の撮影は客観的世界を私物化する無限の技術であると同時に、単一自我の避けがたく唯我論的表現でもある。カメラは既存の芸術を暴くだけだが、写真はそれを描く。

写真を撮るのではなく、「つくる」ことをアダムスは進めている。写真は自我と世界との本来的にどちらともつかぬ関係の例である。写真がいうところのリアリズムのイデオロギーは、世界との関係で自我の末梢を命令することもあれば、自我を賛美して世界に攻撃を仕掛ける関係を正当と認めることもある。その関係のどちらか一方の立場が常に再発見され、擁護されている。

アマチュアとプロフェッショナル、素朴なものと洗練されたものの区別は絵画よりも写真のほうがつけがたいというわけではない―それはほとんど意味がないのである。無邪気な、単に実用的な写真は、最高に有能なプロの写真制作と変わるところは無い。無名のアマチュアの撮った写真でもエヴァンズのものと同じくらい興味深く、複雑な形式を持ち、写真特有の力を備えたものがある。

私たちは撮影された被写体に関心をもつ限り、その写真家は極力控えめであることを期待する。写真ジャーナリズムの成功自体が、一人の優秀な写真家の作品が、彼または彼女が専売の主題を持っていない限りは、他の写真家の作品と区別がつきにくいということにある。これらの写真は個人の芸術家の意識ではなく、世界の映像として力を持っている。

新しい立場は、芸術としての写真を技術的な完成という重苦しい基準から解放し、同時に写真を美からも解放することを目指す。それはどんな主題もどんな技術も写真の資格を奪うことにはならない、世界的な趣味の可能性を開くものである。

写真において言葉が貧しい理由…写真批評の豊かな伝統が無いため。



ベンヤミンのアウラの一回性に関し、オリジナルの作品と、その後何世代にもわたる(現像を繰り返してきた)写真との間では、大きな違いがある。現像におけるマニエラ、時の経過によるマチュアといった要素を考慮するべきであろう。

美術館がおよそ通俗的なものを特定の傾向を持って尊重するのには、美術館側に歴史主義者の見解が広まっているからであり、それは否応なしに写真全史の成立を促そうとするものである。

ますます多くの出来事が私たちの経験に入ってくる媒体としての写真映像の重要性は、結局それが経験から切り離されて独立した知識を有効に供給できることの副産物に過ぎない。

写真は品位を貶める方向に、絵画はそれを仰々しいものにする方向にむかう。

メルヴィルの『ピエール』:「人間よりも尊敬を払われる資格ができる。肖像画については小さく見せる要素など考えられもしないことだが、人間にはどうしようもなく小さく見せるものが沢山まとわりついて想像されるのだ。」

資本主義社会は大量の娯楽を提供する必要がある。またそれは、無際限の量の情報を集める必要があり、天然資源を開拓し、秩序を維持し、戦争をし、官僚に仕事を与えるためにはますます好都合な社会である。 大衆には景観として、支配者には監視の対象としての能力をカメラは有する。(2000年以降においては幾分その内実は変わってきているのも考慮すべきであろう。)

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