2010年11月3日水曜日

ジョジョ 

ジョジョ

マンガ:空想の幅は自由。街の概観のみならず、生活している人間を放つことも、歴史を与えることも可能。

荒木は「動き」の通:体の動き(形態)はいうまでもなく、心の動きも明察している。

コマの順を追っていくマンガの読み:正統であるようで邪道。人間の視覚構造に反している。ストーリーの奴隷になりやすい。絵を味わうのではなく、ストーリを味わうようであれば書物と変わらなくなってしまう。
マンガの中身…味覚:分析や解釈はとかく理や思い込みが過剰になるので、料理的に見ると、中身の「味」を悪くしてしまう恐れがある。しかし、同時に新たな発見もある。単においしいという観想だけでなく、このスパイスが甘みをうまく抑えて、結果としてこのような上品な味を可能なら占めているといったような解釈を得ることができる。

拷問:肉体的暴力のほかに精神的暴力が加わる。「手」を「考」えて「問」いただす。

奇にして美、奇は鬼、異形の美で醜と背中合わせである。表裏一体であること。

言葉の「しぐさ」:言葉を発する対象・環境・年齢によりさまざまに「しぐさ」は変貌する。

荒木の描くマンガ:運命から逃避し妄想に逃げ込むのではなく、また運命を単に内面化するのでもなく、運命の固有性を内面化した先で、かつそれを多様な潜在性へと開きなおすこと。

プッチ神父:運命への人間の無力さを絶対零度まで推し進めた。神の意思ばかりでなく、俗らいの出来事すら変えられないことへの葛藤がプッチを悩ませた。
プッチはニーチェのような「全き生命」の覚悟を望んでいた。運命を知ることで、それでも生きていかなければならない。「大切なのは何をなすか」ということすらも解っている世界で我々は「何をなすべき」「何を目的に生きるべき」なのであろうか?

ディオ:「どんな人だろうとひとには適材適所がある。それが生きるということである。スタンドにも同様のことが当てはまる。強い・弱いはない。」人の弱さは一般論では語れない。各人に固有の無能や弱さがある。しかも、それは必ず他者との偶然的で抗争的な出会い=引力を通して露になる。

正しさ/間違いが見分けがたい以上、人は「愛する気持ちゆえに愛するものを傷つける」「愛とか正義を願う気持ちを持つあまり間違った道に迷い込む(はたしてそれが間違っているのか判断しかねるが…)という逆説から逃れられない。

真の無償の自己犠牲:自分でも犠牲にしたという実感すらなく、相手も何かを贈与されたという事実に気付かないような、そういう自己犠牲をさすはずであろう。偉大さではなく、そよ風のように当たり前の犠牲。(レヴィナス参照)
他人は許せるが、自分という「敵」はどうしても許せない。自己嫌悪へのスパイラル。

戦いにおける対話/友愛の芽生え:自己犠牲を真に貫くと、殺意という限界点が必ず通過される。敵に最大の敬意を払い、愛すること。最終的には、敵に自らを殺させてあげること。無力状態の者を殺させることで、敵の精神を新たな次元へと引き上げる。(バガボンドの精神をみるとよい。)

一般的に語られてきた「奇跡」:神秘主義や神の特権的恩寵ではなく、卑近で小さな偶然の連鎖からつむがれているという事実。
この世界では、一つの「賭け」の成功/失敗、勝利/敗北の意味も、卑近な出会い=引力の中で無限的連鎖に決定され、また決定されなおしている。

スタンドという二重表象:一人の人間が二重形象化される。意識的に操作可能である点で、「夢・希望」の具象化された「ドッペルゲンガー」のようなものか。(影の歴史と対比)

マニエリスム漫画(技巧的漫画)とジョジョ
古典マンガ:驕慢(きょうまん)な権力志向や放逸な自我や脆弱な自我のことに過ぎなかった。どれも自己の内部でしか発生収束しないものであった。しかし、マニエリスム漫画は違う。外部へと「悪」を求めるようになっていく。当時の社会情勢などを鑑みるに、晩年の手塚治虫が善悪二元論を越えた悪の表象に力を向けていったのは必然であったのかもしれない。
古典漫画において悪は大前提として措定され、そこから反射的に全なるものの言動も決定されていた。しかるにマニエリスム漫画では悪が議論と沈黙嗜好と積極的実践の対象となり、善のほうは対照的に議論の余地の少ない大前提として祭り上げられている。
ジョジョでは?悪の描写に関して、思想の背景・人間の未来性・歴史的反省をもとに精密に記載されている。

16世紀の絵はほとんど、一目見ただけでは何がその主題なのかわからない。それは、統一と明晰さを第一に重視した古典期の作画法の逆をマニエリストが行っているからである。彼らは画面の中のある部分から他の部分へと隠された盲目を張り巡らせる。異なる時間や同一人物が二人いたりする。もはや、絵を客観的な世界の再現とは捉えてはいけない。「絵を読む」という行為はマニエリスムの作品に合致しよう。

荒木:好きな画家の一人にゴーギャンをあげる。画面をエリアで区切り色を塗っている(クロワソニズム)が、画面全体に遠近法的な奥行きあるところが凄いと述べている。
古典的なミケランジェロから強い影響を受けた一方で、バーネットニューマンなどの記号定名作品を好む。記号性の高い作品にしかない表現方法もあるため、新鮮かつ勉強になるのであろう。

フレームの不確定性:映画において、フレームは一定・不変であろう。しかし、漫画においては不定・可変である。枠組みの可変性は大きな題目となる…後々述べる。

ジョジョ:自らに様々なものを与えてくれる父親や師や仲間に対して同一化している
ディオ:自らと同様に奪いつくされた母親に対して同一化している。

第五部のジョルノ:ディオの血を受け継ぎながら、ジョジョ家の血へと進入していく。与えられたものを身につけ、与えられていないもの(奪われたもの)を渇望する「現代人」の表象か?この「現代人」の歩むべき道を荒木は作品の中で示していく。
自らの運命に気付くと、仲間とともに歩み、仲間の離反や死・苦痛を遺産として受け継ぐことを選んだ。ディオのような他者の拒絶ではなく、他者に向かって自らが開かれていることを選び、他者によって自分自身が変わることを恐れない心を持った。

視線から見る漫画:読者の視線は、常に紙面の真正面から注がれるわけではない。 読者の視線は、平面的にではなく立体的に運動する。 実際の目元からではなく仮想的な視点から注がれる「仮想アングル」が存在する。

コルネリス・ファン・デル・ヘーストの収集室:仮想的な支店から左→右へと差し込むような視線が生まれてくる。頭を動かして、左から覗き見たいという衝動に駆られる。
人間は実際に首を傾けずとも、仮想的に首を傾けたような感覚を頭の中で作り出せる。
(唯脳論参照)
また、紙面全体には「アングル」が現れる。(一枚作品を多数並べた場合はこれにあたらない。)。ページのアングルと、次のコマのフレームの形、フレーム内の内容の流れで読者のテンポは様変わりする。



原則1 焦点移動:鑑賞者のアングルが傾く。消失点やコントラスト、指差しポーズなどによっても焦点は移動することとなる。
原則2 アングルの保存:視線を移動するに当たり、余計な情報を取り込まないよう、跳躍的に次の段へと移動する。
原則3 z軸回転のねじれ:コマ内の構図が斜めになっている場合、アングルは傾く(焦点移動に近い)というよりは「ねじれる」。吸い込まれるような見方を想像すればよい。
原則4 正面補正:注視している面に対して垂直に近づくように傾く。傾斜の強いアングルのコマの次に持ってくることでニュートラルに戻す役目もある。
原則5 変形ゴマ:台形ゴマは奥行きのある面と認識されやすい。
原則6 サイトラインの一致:見詰め合う人物同士の視線をつなぐライン。キャラクターを通しての視点か、キャラクターと同位置からの視点か。

荒木割りは独特。様々な技法を駆使して描く。天才。

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