2010年9月29日水曜日

もの・こと・ことば

もの・こと・ことば

「コト」が時間の経過とともに進行する行為を言うのが原義であるのに対して、「モノ」は
推移変動の観念を含まない。むしろ、変動のない対象の意から転じて、既定の事実、避けがたい定め、普遍の習慣・頬右側を表す。

日常的な表現があるからこそ様々な事象をモノに算入できる。日本独特の構文がなかったとすれば、国語学的にモノという詞の語義を万象に拡大することは及びもつかなかったであろう。

われわれは日常、事態的に自己同一的なあるモノを想定し、それがしかじかの関係においてはAであり、しかじかの関係にあってはBとなる。

関係規定は当体にとって決して外的・遇有的なものではなく、それはまさしく当体の内実に属し、当体をたらしめている所以の規定性である。
真の実態と呼ばれるに値するものがあるとすれば、総世界的な関係態そのものにほかならない。

現前する「あるもの=図」は彼-此の関係の次元にあるとき(私の価値観のうちで区分可能な次元)、「このもの」・「かのもの」と呼ぶことが出来る(所有格を付すことができる)

世界現相の具象的な様態、作図的な図柄の分節模様は言語的活動の介在によって激変するにせよ、現相「統-轄」の基本的な構成そのものについては“言語以前的な準位”に即して予め考察しておくべきであろう(問題は本論文で考察する対象範囲のフレーミングをどのくらいに定めるかを規定しなければいけないことにあろう)

フェノメナルに現前する諸々の「もの」は、基質的には同等でも属性のあるものについては不等であったり、属性のあるものについては同等でも基質的には不等であったりする。
これらの分岐的書性質もまた、概して内省的に知覚されるものである。

関係の第一次性⇒実体 第二次性⇒関係 と我われは捉えがち。いな、これすらも考えられない人は多数存在しよう。 実体あっての関係?しかし、言語において存在しないものについて語る時、実態はどのように考えるべきであろうか?



あるものを分岐的と確知したとき、別のある質的規態として策定される。
真っ白な紙の上にある点々⇒黒い模様⇒図(与件)

example  x (a) fa) f(a) A  このように数学的関数的に考えることも可能。
当初のxは他者の思考をめぐって、f(a)へと至りうる。

象徴が象徴として成立するのは、言語を解しての間主観的交通の準位をもっているから。
例えば、異なる言語間において象徴は伝達されえないはずである(互いに相手の言語を理解できないとして)

経験論においては単純な感覚的印象への還元をコトとするのに対して、合理論では単純な知性的観念からの論理必然的な複合化を志向する。前者は直感的でもあり、後者は慎重的でもある。

言語無しに精神のアクチュアルな活動は存在しえない。言語活動と思考活動は不可分な一体をなすに違いない。

言語記号は事物と呼名を結びつけるのではなく、概念と聴覚映像を結びつける。
レヴィの神話と言語機能についても考察するべきであろうか。

D.ヒューム:他の無限な数の観念を抱合しうるのは、ひとえに習慣(各国の文化)によってのみ可能である。

一旦発せられた言葉の意味は、現実の変易とはかかわりなく、いわば自己同一性を保持する。火事という言葉の意味は、火事が消えても、火事の観念が薄れても、けっして消え去りはしない。

学術講演を聴いたり、学術書を読んだりする際、我われは心像の現出を欠いたまま理解が進捗する。その言葉に対して、観念的な像をあてがうことで我われはそれを理解した気持ちになっている。

時枝:「聴き手の受容しうるものは、単に音声あるいは文字であって、限定されたラングではない。聴き手は自らの主体的な統合作用によって、これをある特定事物に結合して理解するに過ぎない。」


言語活動におけるダイナミズムの問題:あるときに、あるモノを指して、あるモノを定義づけた。しかし、その当のものは、時間と共に変化しているのであり、あるときに定義づけた当のものではありえない。

関数が同じでも、人により各々の「モノ」にたいする変位が異なる。F(x1) F(x2) F(x3) etc…

記号の凡化:他者たちから矯正される体験を通じて漸次確立するのであり、所与xが所知(a)としてあるのは、単に私という一私人にとってではなく、世人一般に対してであるという間主観的な対他者的妥当性のbeliefが随伴している。

判断にとって、表象の随伴は必然的な契機ではない。従って、判断の意味成体は、それ自身は決して結合表象ではなく、判断の意識作用は表象を結合するはたらきに存するわけではない。

疑問や仮定と判断が別たれるのは、陳述様相の差異性においてである。
⇒自己が備え持つ客観的妥当性の天秤にかけて、「判断」を下す。判断が下せない時、疑問や仮定となる。

「意味」は、言語記号が間主観的交通において媒介的に演ずる指示・述定・表出・喚起の諸機能と相関的に、多重的な諸契機からなっており、単質的に定義付けられるものではない。

「こと」は必ず誰かに属すること。X(a)であるということが誰かに対して対妥当するという存率構造は、認識論的主観に対する対妥当性として捉え返される。


※新しい見解としては、「こと」の諸属性くらいであろうか。ソシュールと時枝の論考の域を脱しきれない間がある。

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