2010年9月23日木曜日

ウォーホル

ウォーホル

アンディ・ウォーホルにとっては、芸術はお金を通じて美と輝きを増した。

マリリンモンローをモデルに選んだのは彼女が死んだ後のこと。死が彼女の神秘的な要素を一層確固なものとした。

若い頃のウォーホルは抜きん出た才能を持っていたわけではなかった。

「人の一番綺麗な時っていうのは、本当に外見が流行に乗って見えるんだよ。時代が変わり趣味が変わっても、10年が過ぎ去っても、その様子を保てば、何もかも変えなかったら、もし自分を大切にしたら、綺麗なままいられる。」

スターになるには人々の噂になる必要があった。その噂を作ったのは彼自身である。

ニューヨークにいた頃に熱中したルーベンスやクールベに見る工房(ファクトリー)なる製作現場は、後の彼の作品製作現場とよく似ていた。

ウォーホルの儚い刷り:ロートレックやジャン・コクトーを思い出させる。作品は綿密でよく研究されていて特異性を見せていた。また、彼の最も優れた絵は理解しがたいあいまいな雰囲気を漂わせていた。

芸術はオリジナルではなければならないという原則をウォーホルは覆した。デュシャンと同じ考え方を持っていたが、デュシャンはウォーホルほど富と名声を求めなかった。

60年代の初期にウォーホルは方向を変える。変更前の彼のアートは、シックなデザインにふさわしかったが、あまりに上品過ぎて、ニューヨークのアートの世界の内向的なスノッブたちの趣味には合わなかった。変更後はコマーシャルアートのレベルを芸術的なスタイルや型で仕上げるのをやめ、視覚的にはっきりとした大衆広告イメージで純粋な芸術を印象付けた。 

ロバートヘンリー:作品の美は作品の主題にあるのではなく、作品そのものに存在している。日常的な生活や出来事をそのまま描くことは、視覚的美+哲学・社会学的美をキャンパスに表出させる。


おりしも、60年代初期はJFケネディの「ニューフロンティア宣言」により新しい文化の到来を感じつつあった時代である。

アートそして日常生活でも独自性のみが問題とされるような時代において、後に来た者は関心も持たれないし、敬意も払われない。芸術の世界でさえも、商標が品質を保証するのだとすくなくともそう思われるようになった。

シルクスクリーンテクニック
写真の世界:漫画や消費する物品の商標や芸術作品そのものよりも、実際に起こった事実を表面だけで判断して事実であると決め付ける世界。

ウォーホルとリヒターは、ルノワールやアングル、ドラクロワ、19世紀の芸術家がなしたように、密かに写真を模写するのではなく、堂々と写真を用いた。フィルターを通して出てくる対象に独自の知覚を加えることによって現実を変えてしまう。

おびただしい量と同じ内容の報道の繰り返しは、人々に悲惨な現実への恐怖感を失わせ感覚を麻痺させてしまう。しかし、良し悪しまではウォーホルは問おうとしていない。

将来の予定作品のために雑誌や新聞を集めるようにいろいろなアイディアを集めた。大量生産された写真や日常の生活用品の中に大衆真理を代表する要素があり、これこそ主題になりうると気付いた時、ウォーホルは断固たる反応を示した。全ての絵や生産物がその時代の精神を象徴するわけではない、それゆえ、芸術的価値を持った対象となりうる。コマーシャル価値におけるTPOの存在。

物質が一体どんなものか把握はしているが、機能的な役割を奪ってしまってから、その代わりに工業的な大量生産の既製品の美的な加工にかけた。

ウォーホルの作品は表面的には浅いものに見えるが、決して皮相であると混同してはいけない。「人は化粧をしていないときに一番キスしたくなるように思える。」

飛行機事故、自動車事故、毒殺、電気椅子にみられるシリーズ:ウォーホルの商業的時代にテーマをとった「アメリカ生活様式」の裏返しといえる。彼は、自分の生き方全ては死に関連していると述べている。

絶えず広告の魅力に助けられた慎みの無い消費習慣は、20世紀の終わりに近づくにつれ、裕福な社会の真の怖さを露呈したように思われる。
ウォーホルが描いたもの:途方もなく正確に社会を描いたもの。事実が隠し持っているものを描いた。それはあらゆる人の切望、恐れの「内なる世界」である。

マスメディアでを重要視する社会では、名声は社会的成功の自然の目標で、アメリカでは犯罪者ですら成功者である限り社会的名声を得る。

キャンパスを小分けにし、イメージを普遍的に繰り返した。絵の中で時間は事実上停止している。すなわち、一瞬を捉えようとしていたかのように、同じ瞬間を繰り返している。連続性の逆説を示した。

「東京で一番素敵なものはマクドナルド、ストックホルムで一番素敵なものはマクドナルド、でも、北京とモスクワでは、まだ素敵なものは何もないんだ。」共産主義にはコマーシャルものが存在しない。

ウォーホルの映画作品は見ていて気がせくことがない。ひたすら対照を映し、それが何よりも美しいものであるかのように見せる。見続けることになれることで、無機的空間が有機的空間へと変貌する。つまり、今まで見過ごしていたことに意味を見出すようになるのだ。これは全く新しい手法であった。ゴダールらのそれとは異なる新しい表現技法である。

生の恐怖(過去から逃れられない生の恐怖)と死の恐怖(過去という死の恐怖)。二つの感覚が補い合う関係にあり、この関係は、生活と芸術における彼の信念であった。

「人はいつも時が物を変えるという。でも、実際は自分自身で変えていかなければならないんだ」

社会の仕組みに沿った芸術形式のためのソフトウェアであり、哲学を持ったアーティストであり、同時に藝術としての固有のイメージを育てるハードウェアを生み出した。芸術の世界に新しい次元を加えつつも、芸術自体を傷つけることはなかった。

0 件のコメント:

コメントを投稿