2010年9月23日木曜日

イラクとパレスチナ

イラクとパレスチナ

イラクはもともと教育熱心な社会を持ち、すぐれた学者や技術者を輩出する国であった。

フセインが大統領になるまで、イラクは反米親ソの社会主義的な傾向の強い政策をとっていたが、フセインは親米反ソに大転換した。これも、フセインの先見の明によるもの。

フセインはイデオロギーよりも実務を重視する人で、イラク最大級のルメイラ油田の開発を指揮し、イラクの産油量を急増させた。1972年に石油会社を国有化したところ、イギリス・フランスとの関係が悪化したが、フセインの外交力により関係改善に成功した(なんらかの協定が結ばれたのは確かだろう。)

フセインは、サウジアラビアなどの近隣に位置する親米の産油力が力を蓄えだしたことをも見据え、反米を維持してきたシリアやソ連と手を結んでも国力が衰えるだけだと判断し、機敏に動いた。

イスラム革命:アメリカなどの欧米型の社会が抱える貧富格差などの矛盾を乗り越え、もっと人々が幸せになれる社会を作るためのものだった。

アメリカのイラン・イラク双方への武器提供の背景には「均衡戦略」という外交戦略の考えかたがあった。一つの国だけが強くなりすぎアメリカの言うことを聞かなくなってしまうことを警戒した。

アメリカはイラクのクェート侵攻を察知していながら放置した。侵攻が明らかとなってから、イラクを叩く方策がアメリカ側にあった。そうすることで、「世界の平和を維持するに米軍は必要不可欠だ」という概念を世界にばら撒きたかったのだろうか。

アメリカにおける産軍複合体派勢力と外交派勢力の衝突:ブッシュ政権では、前者がパウエル、後者がチェイニーによって主導された。

クルド人問題:オスマントルコに反旗を翻してくれれば、戦争が終わった後、独立させてやると約束されて協力し、連合軍の勝利に寄与した。しかし、戦争がおわって、オスマントルコの変わりにトルコ共和国が建国された余波でクルド人は建国を果たせなかった。



いったんバラバラに独立したアラブ諸国がその後再統一できないのは、個人的な野心ばかりを追う指導者が多いというアラブ人自身の問題がある。

ブッシュ家は石油会社を経営(初代ブッシュ大統領)。サウジアラビアが石油収入の一部を欧米の石油会社などを経由して、アメリカの政界に政治献金として流していた。

ユダヤ系の人々は古くから情報を扱うことが非常に上手く、幅広い分野で情報産業に携わり、主導的な役割を果たしている。

テレビに映るパレスチナの紛争現場は決まった場所ばかり映る。パレスチナ人が国際世論を意識した戦いを行っている。

人権外交:他国の人権侵害を口実に、その国を攻撃することが目的となっている感が強い。アメリカのマスコミがパレスチナにおける人権侵害を指摘することは、イスラエルを支援するどころか、逆に攻撃することになりかねなかった。

かつてのイギリスが、インド独立に際し、大国になり過ぎないように二つの国に分割した。アメリカは同じことをイスラエルで行っている(均衡戦略)。両者が資本的にも精神的にも弱まったところで、美味しいところを一気に吸い上げようという魂胆か。

異国の人間が増えすぎてしまうと、本国の王政・国民が異国人に虐げられる可能性が増す。とりわけ、中東の国々の民族は私利私欲が強いため、互いに警戒している。

シオニズム:19世紀末にヨーロッパのユダヤ人達が起こしたイスラエル建国運動。

アラブを中心とする中東周辺地域には高度な文明が存在したことからも、ここに住む住民達の潜在能力は高いものがある。アメリカはイスラム文明の復興を恐れているのか。
事実、中東諸国が一致団結すれば、石油マネーの恩恵を独り占めすることもできる。

レバノン:権力者の支配が及びにくい地域。7世紀にマホメットのイスラム勢力が中東の多くの人々を改宗させた時も、時代の変化に流されること無く旧来の社会的地位や信仰(マロン派キリスト教)を維持することができた。
レバノンには家を追われた数十万人のパレスチナ人が越境してきたため、国境付近に難民キャンプに閉じ込めた(国内まで流入してくると、人口構成が大きく変わってしまう)


PLOの幹部達もレバノンの難民キャンプに入ってきたため、レバノンからイスラエルに向かってロケット砲などによる攻撃が行われることになった。イスラエルはレバノン国内のキリスト教勢力を支援し、民兵を結成させてPLOと戦わせた。これが、今のレバノンの内政問題・内紛状態の種であろう。

オスロ合意:イスラエルが占領地から撤退する代わりに、アラブ諸国はイスラエルを認知して経済関係を結び、全体が平和になったところで、欧米や日本企業が進出し、関係者全員の懐が潤う…といったシナリオが描かれていた。

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