2010年9月23日木曜日

REM KOOLHAAS

REM KOOLHAAS


¥、E、$をあわせるとYESになる。アドルノのように、グランド・ホテルの深淵にこもって否定のための否定ばかりやっていても仕方がない。グローバル資本主義の波に乗ってサーフィンしてしまえというのがレムのモチヴェーション。

可能な限り全てのものに関心をもち、全てのものに正面から向き合う。それこそがポストクリティカルな時代に唯一可能なモラル-善悪を超えたモラルだ。ここに、浅田はレムの批判的距離を放棄するシニシズム(既存の価値、理念に対し懐疑的で冷笑な態度をとる傾向)をみる。己の価値観のみを唯一のものとして物事を進めるレムを言い表す面白いword

ジェネリック・シティ(無印都市):ベンヤミンのアウラの喪失と現代建築の非差異性の間に同じ匂いをかぎつける。

エピセンター(プラダ):コマーシャルを大々的にすることを目的とせず、文化的・オープンスペースの場としての役割が第一義である。

「私は空間という言葉を使わない。脚本にそれを言い換える。空間は建築を神秘化し正当化してしまう。みんな空間を神聖かつ秘密のものとして扱い、他の人たちを締め出してしまう。」:超越的に空間を用いると、その神秘性のために“自己の判断”が出来なくなってしまう…。

「空間」以外のものを作り出すことで、逆に「空間」が現れてくる。ヴォイドの概念。
ジェネリックを多数作ることで、それらの間にアイデンティティが現れてくる。これは、意識的に空間を作り出す近代建築の手法に逆行している。

「柱があり、その柱に支えられている何かがあり、それらの全体関係において建築が成立している。私はここで、柱を傾ける。何ゆえ?その問い自体を引き出し、建築への眼差しを復権させんがためにだ。」美的なものではなく、コンセプチュアルなものをレムは好む。






ルネ・マグリット:言葉とイメージ=コールハース:形とその動き

針と球:地表面の影響を限りなく小さくし、最大限のプレゼンスを得ようとすると、建築は針状になる。一方、最小限の表面積で最大限の容積を得ようとすると、建築は球状になる。

レムは美学的な面からではなく、社会的な面から建築を考えていた。
mass」としての巨大建築物と「consideration」としての小さな建築物。

ヴォイド:書という「地」に対し、プログラムという「図」の穴を自由に開ける操作。

エスカレーターとエレベーター:前者は階層を無効化し、連続性・流動性を生み出す。後者はある地点とある地点の機械的接合を可能にし、断続性・転換性を生み出す。

ジャンクスペース:近代建築の副産物として我々が生み出し続けてきた建築物の総体。パッチワーク空間。ここでは、構造も装飾も、公も私も、高級なものも低俗なものも無秩序に混在する。正に東京そのもの。一時性・更新可能性・非歴史性。

並列都市:無秩序にも思える都市計画を新と旧が織り成すパフォーマンスととらえる。共産主義と超資本主義、富と貧、農民と都市住民、無秩序と抑制など、相反する概念が一つの都市社会の中で並列している。

リプレイスケープ:本物の自然を建築内に配置するより、商品化された自然としての模倣品を配置したほうがメンテナンス、施工においてはるかに効率がよい。これは、植物だけに限らず音響、空気などトータルな環境要素を含意する。

建築と都市:前者は人間の制御によるもの。後者は、前者が集積して失敗作に見えるもの。


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