2010年9月23日木曜日

イメージの修辞学

イメージの修辞学

ある「もの」を「イメージする」に当たり、シニフィエとシニフィアンは面白い関係を生み出す。すなわち、両者の間に読み手の「美学」「連想力」「知識」「習慣・文化」が大きく関係しいてくることである。ソシュールの言うレベルではなく、さらに他分岐することになる。

イメージを見るものは知覚的メッセージと文化的メッセージを同時に受け取る。
字義的イメージは外示的、象徴的イメージは共示的。
シニフィエの揺れ動く鎖を固定するための様々な技術が社会全体の中で発達する。

テクストは読み手をイメージの様々なシニフィエの中で方向付けて、彼があるものを避けて他のものによって予め選んでおいた一つの意味へと読み手を遠隔操作する。

外示的イメージ
デッサンが持っているコード化:規則かされた置き換えに丸ごと服従するということ。置き換えのコードはシニフィアンと非シニフィアンという分割を生じさせる。
デッサンの外示は写真の外示よりも純粋ではない。デッサンには様式が必ず必要とされる。

人間による写真への介入・・・共示の次元に属す。生の写真があってこの上に人間がいくつかの技術を使って文化的コードからできた記号を配置しているかのようにすべてが行われる。外示的イメージは象徴的メッセージを自然化し、共示の非常に濃密な意味論的な人為製を無垢なものにしてしまう。

写真:コードがない→文化がない→理解するに必要な最低限の知が必要となるだけ。しかし、近年の写真にはあてはまらないか?写真表現の複雑化がすすんでいる。

外示にはなんらかの意図が組みこまれている。「ディスクール(言語)」には常に外示が残っている。共示は囲いの共有。共有でうまれるメッセージは外示を伴う。

純な学問(それ独立で成り立つ学問)が存在しないように、連辞はさけられない。

模倣(芸術・技術)はすべて2つのメッセージを含んでいる。一つは外示のメッセージ(アナロゴン)、もう一つは共示のメッセージ(社会が考えていることをある程度まで読み取らせる方法)
写真における記述は、写真が持つ外示のメッセージに第2のメッセージを付す。
外示に深く関連する(トリック、ポーズ、被写体)・・・メッセージ的
共示に深く関連する(撮影効果、美的配慮、構成法)・・・包括的

トリック・・・外示の面の内部そのものに入り込むことができる。
ポーズ・・・ポーズは撮るものが見るものを想定して作為を加える。読み手が単なる外示として受け取っているものは、実は外示かつ共示という2重の構造である。
被写体・・・被写体は力を持ってはいないが、意味(外示メッセージ)は持っている。
撮影効果・・・共示のメッセージはイメージそのものの中にあって、証明や焼付けの技術によって装飾されている。
美的配慮・・・シニフィエが問題となる。結局は絵画から派生する美意識に縛られているのかもしれない。
構成法・・・連続性の次元ではsequenceの各ショットの次元ではない構成が重要となる。

構造的にイメージに寄生しているのが話し言葉である。
かつてはイメージがテクストを映像化していたが、現在はその逆の現象となっている。文化レベルが上がるほど知がつみあがり、像の肥大が語の肥大を上回る。

共示のコード・・・自然的でもなく人工的でもない、文化的であるようなもの。社会が使用することによって意味が与えられる。独自の意味作用ですら、社会と比較するはずであり、歴史・社会の幅は一定でない。写真の読み取りは常に歴史的。読み手の知にゆだねられる。
知から生ずる共示は常に人の心を安心させる。→知は他社に勝るもの(ものさし)として示しやすい。

コードに頼るということ・・・人間がある理屈と自由を通して自らを証明し自らを経験する方法。形が決まっているほど共示は得やすい。しかし、その幅は狭くなる。

レヴィ=ストロース・・・意味が読解可能なもののなかで最も高度なカテゴリー。われわれが最も興味引かれるのは、とりわけ、理解・批判のしやすいことがら(政治等)である。

バルトは定式的な形式にはまりたくない人間であったがゆえ、様々な著物がある。常に「名詞」ではなく、「動詞」としての「バルト」にこだわった。

官能について:断片への媚態と挑発を繰り返しながら、相対を構築する傍ら、最も近くまで迫りながら「突拍子のないもの」によってその完成を延期する官能性。具体的であることが具体的に容認されがたい世界に暮らしながら、その不自然さにいらだつ自由を多くの人があいまいに放棄して何の苦しみも感じようとしないとき、その痛みを回避しようとする倫理性をバルトが示し続けている。つまり、一種の諦め的肯定性を示した。

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