2010年9月23日木曜日

イノセンス

イノセンス

ロジックでありながら官能的な表現:球体間接
日本:儒教が明治維新で一度途絶える。そのごヨーロッパ的になる。しかし、失敗。もう一度儒教に戻るわけにもいかず、ただなんでも受け入れるようになった。(丸山真男論)

身体がある時点でなくなったというわけではなく、無いことが自分の身体だという本質に気づく。その裏返しとして外部に身体を求めることになる。そんな時代。

大人が子供を育てること:ある意味別の生き物に感情移入し、ゴーストを組み込んでいく営みである。犬、電脳、機械みなが互いの情動をぶつけ合う。垣根がなくなっている。

身体の分節→身体の言語性:身体の各部位が本質的にはばらばらでありながらも、隠喩的な関係性につながっている。
内省的主体は身体的エロスを持つことができず、身体的エロスの主体は内省することができない。自己認識さえも怪しい人間による身体(他者の身体)の象徴化、身体意を喪失した顔面の文化。ここで重要なのは、自己の身体ではなく、他者の身体の象徴化であるということ。  象徴化は言い換えるなら切断作用であり、死の欲望に端を発する。

アニメにおけるリアリティ
ドラマで物語が進行するとき、ドラマは停滞する。物語が転回するとき、ドラマは進行する。これと同じように、アニメにおいて実在するそれに等しい情報量を持ちつつ、しかも映画の内部以外に何の根拠も持たない非在の登場人物が必要となる。この非在が物語を進行させる。

視覚のフレーム性:肉眼で対象を見る行為は、対象を現実のフレームにおいてみる行為に置換された。そしてあらゆる視覚メディアはわれわれの視覚が不完全であることに依拠している。「見ることの真実性」から「見ることのフレーム性」へと移行する。もはや、現実と虚構の二項関係は存在せず、複数のフレームが並立するだけである。これは視覚本来の虚構性が露呈したに過ぎない。(視覚の80%はわれわれの想像によって構成されている)
単一の身体に固有の心が宿るという現実性はフレームの流動性を鈍くする。
イノセンスでは、単一のゴーストが複数の義体に宿りうる可能性を示唆することで、フレームとして複数化する。この複数化が真実を映し出す。

人形の中には独自の表象化の触媒作用が潜んでいる。自己の移しこみのような触媒作用。人形と人間の関係性が人形の魂として擬似物象化する減少は興味深い。
人間の人形への嫉妬:人形は無限の時間を生きる。人間の不老不死へのあこがれ。もし、これに自己の意思を埋め込むことができたら…。

西洋の文化史:旧勢力のイコンが偶像崇拝だと攻撃され、破壊尽くされて出来上がった廃墟が新たな偶像になっていくという繰り返し。近代建築の装飾性のなさへとつながる。

男性の夢見るステレオタイプな女性性の情報に女性の経験値を加味した男性の性欲処理機械。生身のリアリティをえるにはリアルな女性、とりわけ少女の経験値が必要。 少女である理由は、大人は欲望の解放のすべを知っているがため、絶対的な執着を取り入れることができない。

身体を持たないことから身体による制圧をうけない。電脳の世界

理解するという行為は結構残酷。完全な理解に達したとき、世界と心は和解に向かうのか?理解による救済と残酷は表裏一体。

建築物を世界設定の機軸に据える利点:建築環境はそれ自体が人工物であるが故、すでに淘汰された様式が存在し、作品の着地点を容易に見出すこともできる。歴史建築と映画の設定には必須かつ有効。

魚:生を意識しつつ虚の世界に没落する  鳥:理想的生を超えた世界 犬:従属を強いられる人間的世界

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