2010年9月23日木曜日

イメージ 視覚とメディア

イメージ 視覚とメディア

誘惑:人間や仕草や習慣に対する我々自身の観察に合致するものだけを受け止める。おそらく、我々が相対的な社会関係と道徳価値の存在する世界に住んでいるからだ。

先入観は過去をあいまいにし、神秘化してしまう。歴史は常に現在と過去の関係からなる。

神秘化とはそうしなければ明らかになってしまうものをぼかす作業である。

印象派にとって目に見えるものは、もはや人間に見られるためには現れない。それどころか、目に見えるものは手絶え間の無い変化の中で流動するようになった。

複製技術が極度に発展した世界において、原画の意味はそれがどのような特別なことを語りかけてくるかではなく、どのような特別な状態にあるかによる。

絵画においては全ての要素は同時に見られるように配置されっている。一つの要素を鑑賞するのに見るものは時間がかかるかもしれないが、彼が結論を出すたびに、絵全体の同時性は彼の結論を覆すか、質的に高める役目を果たしている。 絵画(単純な風景画ではない絵画)は自らの権威を自分で保っている。 

複製のおかげで、多くの人が芸術鑑賞をすることができるようになったが、それだけだ。多くの人の目に晒されることで、一層の無関心を誇張してしまったのかもしれない。

過去から切り離された人(絵画)は、自分を歴史の中に位置づけることができた人(絵画)よりもはるかに選び行動することの自由を制限されている。過去の芸術全てが今や政治的な問題となってしまった。  複製により過去から切り離された絵画は、自由が制限される。その制限をかけているものは、出版権、著作権、ポリシーなどの政治的な問題である。

体毛は情欲と性的な力に結びついている。女性の性的情熱は、鑑賞者にかれがその情欲を支配しているような感覚を抱かせるために、最小限に抑える必要がある。

ウィリアムブレイク:油絵の素描の規則には従っていたが、人物が全体を失って、透明になったり、人物の輪郭の区別がつかなくなったり、重力に逆らったりするような様々な試みを絵画のうちでおこなった。 絵の具の実体性を(物質性)超越しようとした。


油絵のイメージは、世界に対して開かれた額付きの窓というより壁に嵌め込まれた金庫に近いのではないか。財産という強迫観念にとりつかれているのは、我々個人ではなく、社会と文化であろう。

広告は単に競合するメッセージの集合ではない。それはある一般的な提案のために使われる言語である。

広告が約束するものは、快楽ではなく幸福である。幸福は他人によって判断される。うらやましがられる幸福、それこそが魅力と呼ばれるもの。

広告の目的は、見るものの現実の生活に対して最大限の不満を抱かせようとするものである。その社会の生活様式への不満ではなく、自分自身の生活に対する(勿論、ここで広告の中の生活と比較している)不満である。

写真の理論は一時間で学ぶことができる。だが、光に対する感覚は学べない。これは人物の描き出すあれこれの陰影を理解することであり、芸術的直観力を必要とする。親しみやすい幸せな姿、今にも話しかけてきそうな写真は芸術家の技量あってこそのものである。

複製にして見せることを初めから意図した作品⇒作品の真贋の基準が崩れ、芸術は政治的な(世の中に対する批判)ものへ、その基準を置くようになってしまう。

我々は見ることを受け入れている。そのイメージの背後にある何ものかによってではなく、その手前にたちあらわれる見ることの経験の中で(単純に、それがそうあるものと理解して)我々は生活している。

見ることの活動がわれわれの記憶を縛っている枠組みをおしのけ、思考と知覚とが一体になる感情を回復させる…そうした目を我々は取り戻さなければならないのではなかろうか。
(問題となるのは、芸術としての選別がゆるくなったことであろう。あまりに増えすぎたアーティスト気取りの人間を取り締まる必要があるのではなかろうか。)

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